知り合いのTさんが体験した話。
Tさんは休日に山奥の渓流へ一人で釣りに出かけた。
人里離れた場所で、川のせせらぎと鳥の声が心地よい場所だった。
日が傾き始めた頃、思いのほか釣果が良かったので、もう少しだけと竿を垂らしていた。
ふと背後から視線を感じて振り返ると、薄暗い木立の間に何かがいるのが見えた。
目を凝らすと、それは大きな影のようなものだった。
動物かと思ったが体の輪郭が妙にぼんやりしていて、何とも言えない不気味さがあった。
その影は音もなく少しずつこちらに近づいてきた。
Tさんは釣り竿を落としてしまったが、リュックだけ抱えて走り出した。
山道を駆け下りる中で影の気配はどんどん近づいてくる。
振り向きたい気持ちを必死で押さえ、ひたすら逃げた。
すると足元が滑り、転んだ拍子に頭をぶつけた瞬間、意識が遠のいていったという。
気がつくとTさんは地面に横たわっていた。
あたりは薄暗くなり、昼間の渓流とは全く異なる静けさが広がっていた。
起き上がろうとすると、すぐ横に半透明な人影が立っていた。
それは着物を着た女性のようだった。
顔立ちはぼやけて見えないが、確かにこちらを見ているのがわかった。
その女性は、そっとTさんの肩に手を置き静かに言った。
「もう帰りなさい」
Tさんが声も出せずにいると、その女性はすっと立ち上がり、林の奥へ溶け込むように消えていった。