Hさんの職場では、夜になるとほとんどのフロアが無人になり静寂が広がる。
その夜、Hさんは一人で遅くまで残業をしていた。
仕事を終えて帰るころには日付も変わり、ビル全体が不気味なほど静まり返っていた。
エレベーターを使おうとボタンを押したがなかなか来ない。
「こんな時間に故障か?」
と考え、仕方なく非常階段を使うことにした。
階段を降り始めてすぐに、何か違和感を覚えた。
誰もいないはずなのに自分の足音に混じって、もう一つ軽い足音が響いているような気がしたのだ。
気のせいだと思おうとした矢先、背後から「カツ…カツ…」と一定のリズムで近づいてくる足音がはっきり聞こえた。
恐る恐る振り返ったが暗い階段の先には何も見えない。
だが、階段のどこかで空気が揺れるような感覚がし、まるで誰かが立っているような気配がした。
怖くなったHさんは足早に階段を降り続けた。
しかし次の踊り場に差し掛かった時、耳元で囁く声が聞こえた。
「ここで止まって」
驚きのあまり立ち止まり辺りを見回したが誰もいない。
恐る恐るその場で立ち尽くしていると、さらに声が続いた。
「ドアを開けて」
声に従って踊り場の非常扉を押すと、扉はギギィ…と鈍い音を立てて開いた。
その瞬間、階段全体が冷たい風に包まれた。
Hさんはしばらく何が起こったのか分からずに立ち尽くしていたが、やがて風が止むと共に背後の気配も消えていた。
気味が悪くなり、走るように階段を降りて出口にたどり着いたHさんは、守衛さんに頼んでタクシーで帰ったという。
後日、その非常階段について調べてみると、かつて非常扉が開かなかったことで逃げ遅れた人がいたという話があったらしい。
Hさんが開けたあの扉は、彼らのために必要なものだったのだろうか。