Tさんが体験した話。
出張の帰り道、少し足を延ばして立ち寄ったのは、山あいにある古びた温泉宿だった。
建物全体に時代を感じさせる静けさがあり、平日ということもあってか他の宿泊客の気配もほとんどなかった。
その宿には、昔ながらの大浴場が一つある。
夜も遅くなった頃、Tさんはゆっくり湯に浸かろうと脱衣所に向かった。
時刻は0時を回っていた。
誰もいないだろうと思いながら浴場の引き戸を開けたそのとき。
湯けむりの奥に人影が見えた。
背中を向けた女性のような姿。
ふふっと笑う声も聞こえた気がした。
だが浴室内に足を踏み入れても、その姿はどこにもなかった。
湯気の向こうには湯船だけが静かに揺れている。
Tさんは不思議に思いながらも、端の洗い場に腰を下ろした。
だがそのとき、湯船の奥から女の声が聞こえた。
「ねえ、どこから来たの?」
その声は抑揚がなく、異様に耳に残る声だった。
Tさんは慌てて立ち上がり浴場を出て急いで部屋に戻った。
翌日チェックアウト後、駅に向かう途中で飲食店で何気なくその話をしてみると、そこのおばちゃんがこんな事を言った。
「あそこね、昔事故があってね…それ以来時々出るって話があるのよ」
それ以上は何も語られなかった。
だがTさんには、あの浴場にいた誰かの声が今でも忘れられないという。