Rさんが体験した話。
秋も深まった頃、Rさんは静養を兼ねて山間の温泉宿を一人で訪れた。
その宿は三方を山に囲まれ、谷に面して建っているため窓からの眺めはよく、夜ともなれば遠くに町の明かりがちらちら見え、自然と心が落ち着くような場所だった。
到着した日は平日で客は少なく、館内もひっそりと静まり返っていた。
露天風呂に入ったあと、部屋でひとり晩酌を楽しみながら、窓の外を何気なく眺めていたとき――崖の下の林の中に、小さな光が揺れているのを見つけた。
山道には灯りはなく、あのあたりは未舗装の斜面だと聞いていた。
にもかかわらず、その光は人の手に持たれたような高さで、行ったり来たりとゆらゆらと漂っていた。
「提灯か…誰か散歩でもしてるのかな」
そう思い最初は気にしなかった。
だが、30分以上経ってもその灯りはまるでそこに根を張るように、同じあたりを揺れ続けていた。
そしてふと何かが背中を撫でるような、冷たい感覚が這い寄ってくる。
「あれ、誰が?」
胸騒ぎを覚えたRさんはそのまま窓を閉め、布団に入った。
しかしあの灯りの残像は瞼を閉じてもなお、頭の奥に焼きついたままだった。
翌朝、まだ霧の残る時間にRさんは好奇心に駆られ、崖の下まで降りてみることにした。
宿の裏手から伸びる細い獣道を辿って、昨夜の灯りが見えたあたりまで下りると――
そこにはぽっかりと開けた空間があった。
草木が不自然に枯れ、地面は煤で黒く染まり、中央には――木造の小屋が焼け落ちたような跡が残っていた。
木材は半ば炭化し、崩れた梁の一部がまだそこに残っている。
そしてその中心、かつて火元だったであろう場所に、小さな花束が置かれていた。
誰が手向けたのかまだ新しく、野花を丁寧にまとめたようなそれは、火災の跡とは対照的に静かに佇んでいた。
――昨夜、灯りが揺れていたのは、ちょうどこの場所だ。
立ち尽くすRさんの耳に、風が吹き抜ける音の中に紛れて「まだ帰れないの…」そんな声のようなものが、どこからともなく流れてきた。
Rさんは振り向くこともせず、足早にその場を離れたという。
宿に戻ってからその話をしたが、女将は一瞬だけ無言になり、こう答えた。
「…ああ、たまに見えるっていうお客さまがいるんです。
でもね、あの場所にはもう誰もいないはずなんですよ」
“いないはず”
その曖昧な言い回しが、Rさんの記憶にいつまでも残った。