山の中や地方の旅館めぐりが好きな、Yさんから聞いた話。
週末、前にネットで見つけた温泉旅館に向かった。
そこは山間にぽつんと佇む古びた温泉旅館の為、電車とバスを使い、最後は細い山道を徒歩で上ってたどり着くような場所だったという。
帳場には年配の女将と若い従業員が一人。
笑顔で迎えられ宿帳に名前を書くと、女将がふと奥を見ながら小さく言った。
「あら、お連れの方はどこに…」
その瞬間、隣にいた若い従業員が急に小声で何かを告げ、女将はハッとしたように顔を引き締めた。
「申し訳ありません、見間違いでした」
と何事もなかったかのように頭を下げた。
その時点では長旅の疲れからか、ぼんやりしていたYさんも深くは気にしなかった。
だが――部屋に荷物を置いて館内を散策し始めると、どうにも違和感が積み重なっていく。
廊下で会った中年の仲居さんに
「お連れ様はまだお部屋に?」
と声をかけられたり、風呂場に向かう途中で出会った清掃員にも
「もう一人の方、お夕食の時間にはお戻りになりますか?」
と聞かれたりした。
もちろん泊まりはYさんひとり。
誰とも同行していないと説明すると、皆一様に「あら…」と曖昧に笑って、その話を濁すように去っていく。
夜、部屋の窓からは深い山の闇しか見えなかった。
虫の声もせず、まるで時間が止まっているようだったという。
こういう静かなのがいいよな、とその雰囲気を楽しんだあと横になると、疲れからかすぐにうとうとしはじめた。
その時、部屋の中で畳の上を歩くような擦る足音や、たまに襖が物音を立てていたが、古い旅館だからだろう…と気にせずに寝てしまった。
翌朝、帳場でチェックアウトの手続きを済ませようとした時。
受付にいたのは昨日の若い従業員。
会話をしながら、彼の目線がどうにもおかしい。
ちらちらとYさんの“背後”を何度も見るのだ。
最初は気のせいかと思っていたが、あまりにも頻繁なのでYさんは思わず聞いてみた。
「もしかして僕の後ろに誰かいます?」
冗談のつもりだった。
だがその時、従業員の表情は凍ったように固まった。
「…いえ、なんでもありません」
その声はかすかに震えていた。
旅館を出ると冷たい山の空気が肌を撫でた。
ふと気になって振り返ってみたが誰もいない。
あの日、旅館の人たちに見えていた“もう一人”とは、一体誰だったのだろうか。