Sさんが体験した話。
登山の帰り道、Sさんは知人の勧めで山中にある一軒の宿を訪れた。
木造の古びた2階建ての建物で、周囲には人の気配も少なく、まさに“隠れ家”のような佇まい。
その日は天気も良く、何も問題なくチェックインを済ませ、夕食を食べて早めに部屋に戻って布団に入った。
奇妙な音が聞こえ始めたのは、午前2時過ぎのこと。
「…ドォ…ドォ…」
だが揺れはない。
ただ耳に響くような、低い地鳴りのような音だけが続く。
それはどこか“規則的”で、まるででかい生き物がゆっくりと歩いているかのようだった。
気になって廊下に出てみても、他の部屋からは何の気配もない。
部屋にある備え付けの電話で宿の人に確認しても
「音ですか?この辺りは動物が多いから…」
と軽くあしらわれた。
それからも音はやまなかった。
「ドォ…ドォ…」
音はときに遠く、ときに近く、そして明け方には唐突に途切れた。
翌朝、朝食の席でSさんは他の宿泊客にそれとなく訊いてみたが、誰も気づいていないという。
やはり夢だったのか、食事を終えたSさんが2階の部屋に戻る途中、廊下の窓から裏山のほうを見ると、木々の切れ間にぽっかりと開けた空地があった。
そこには朽ちかけた石の土台だけが残っており、地面には崩れた注連縄の破片と焼け焦げたような木片。
それが“何か”を祀っていた跡だと気づいたのは、散歩中にその土地の年配の人から話を聞いてからだった。
「昔はね、山の神様を祀った社があったのよ。
でも今の人たちは壊しちゃったの。それからなの。
音が聞こえるって言う人が出てきたのは」
それがあの音の正体なのかは分からない。
ただSさんは、夜中のあの足音が地面の奥深くから――何かが、“まだ歩いている”ような気がしてならなかったという。