Mさんが体験した話。
その温泉旅館は、山深い場所にひっそりと佇んでいた。
古くからあるというその宿は木造のぬくもりが残っており、観光地からも離れているせいか、とても静かだったという。
Mさんは仕事の疲れを癒やすため、一人でその宿に泊まった。
部屋は二階の端にあり、山の景色が一望できる角部屋。
露天風呂にも入り、静かな夜を満喫しながら布団に入ろうとしたときだった。
――外が、白く霞んでいた。
窓を少し開けて外を見てみると、山霧がゆっくりと這うように流れ込んできた。
しかしそれは外に留まらず、まるで意志を持っているかのように部屋の中へ――
静かな音とともに霧は室内に侵入し始めた。
慌てて窓を閉めたがなぜか霧は止まらない。
まるでどこかに隙間でもあるように、霧はゆっくり確実に室内を満たしていった。
気づけば部屋中が真っ白になっていた。
自分の手元すらはっきり見えないほどの霧の中で、Mさんは身動きもとれず、ただ布団に潜り込んだ。
――そのときだった。
霧の向こうに黒い影が見えた。
布団の端…足元のあたりにそれはじっと立っていた。
輪郭は曖昧で表情も姿も分からない。
ただ立っていた。
じっと。
Mさんは目を閉じ朝が来るのを待った。
やがて朝になり、霧は嘘のように晴れていた。
昨夜の出来事が夢だったのかと思いながらふと窓の外、縁側に目をやると――
そこには濡れた木の板の上に、いくつもの足跡が残っていた。
すべて裸足のまま。
外から窓の下へと歩いてきて、止まっている。
その足跡の向こうには山の斜面が広がっていた。
…だが、霧の中に消えていった足跡の先は、どこにも見つからなかったという。