大学生のSさんが住むのは、都内郊外に建つ築40年のアパートだった。
木造二階建て、六世帯が住む古びた建物で、メインの階段の他にSさんの部屋の横には、古い鉄製の非常階段が取り付けられていた。
その非常階段は黒い階段と呼ばれ、住人の間ではある噂が囁かれていた。
「一段だけ、踏んじゃいけない段があるんだって。
夜中に降りると、変なことが起きるらしいよ」
そんな話を聞いたのは引っ越してきたばかりの頃だった。
Sさんはオカルトにはあまり関心がなく、ただ「サビてて危なそうだし使わないでおこう」と思っただけだった。
だがある晩、コンビニで買い物に行こうとアパートの横まで来た時、鍵をかけ忘れたことに気づいた。
部屋は二階。
戻るにはどちらにせよ外階段を使わなくてはならない。
「まあこっちの方が近いか」
何気なく非常階段へと向かう。
夜の闇に包まれた鉄の階段は、月明かりに照らされて鈍く光っていた。
「ギィ…ギィ…」
鉄板を踏むたび錆びた音が響く。
十一段目を過ぎたあたりで、Sさんはふと足を止めた。
一段だけ他と違って真っ黒な段があった。
鉄が焼け焦げたような色で、表面が他よりも微妙にへこんでいる。
「これ…もしかして噂の?」
どうせただの作りば話だと思い、気にせずに踏んで上った。
部屋に戻ったが特に何もなかった。
異変に気づいたのは翌日の夕方。
大学の帰り、ふと階段を上ろうとして違和感を覚えた。
部屋に至る階段が、なんだか昨日と違う気がする。
いや、それだけではない。
隣の部屋の表札も、字体が変わっている。
見慣れた風景に、ぽつぽつと違うものが混ざっている。
夜遅くになると、廊下の奥から誰かの足音が聞こえるようになった。
それは非常階段のある側から聞こえてくる「ギィ…ギィ…」という、鉄を踏む音。
誰かが遅く帰ってきたのだろう、そう思って気にしない事にした。
黒い階段を踏んでから三日目、さらにおかしなことが起きた。
自分の部屋の中にある家具の配置が、微妙にずれていた。
時計の針は動いているのに、スマホの時間とはなぜか一致しない。
五日目、とうとう決定的なことが起きた。
アパートの一階、管理人の部屋にいたはずの人が
「ここには管理人なんていない」
と言い出したのだ。
「このアパートはセルフ管理ですよ?…昔からずっと」
最初あった老夫婦がおらず、知らない中年男性だった。
見たことのない人物が、自分の生活の一部を当然のように塗り替えている。
どうしたらいいか分からなくなったSさんは、夜にもう一度黒い段をふんでみる事にした。
夜、全くの無音の中、メインの階段から下におり非常階段に向かう。
意を決し鉄階段を上っていく。
「ギィ…ギィ…」
十一段目。
そして…黒い段。
足を乗せると「キィ…」という不快な音と共に、視界が一瞬揺れた。
…次の瞬間、彼は自分の部屋のベッドの上で目を覚ました。
夢?いや、違う。
部屋の中は確かに自分のものだが、壁に貼ったポスターが一枚少ない。
コンロの位置が左右逆になっている。
隣人の名字が元に戻っているように思える。
…戻れたのか?
その夜、アパートの非常階段からは、誰かが昇ってくる音がしていた。
「ギィ…ギィ…ギィ…」