ネットで知り合ったFさんから聞いた話。
Fさんがそのアパートに引っ越してきたのは、仕事の都合で急遽決まった異動がきっかけだった。
築年数は古いが、内装はリフォーム済みで綺麗。
家賃も安く立地も悪くなかった。
ただひとつだけ気になるのは、入居時に管理会社の人が妙に念を押したことだった。
「お風呂、夜中には入らないほうがいいですよ。
…できればですけどね」
仕事柄、夜遅くにしか帰宅できないFさんには少々困った話だったが、忠告を無視して入浴を続けていた。
最初のうちは何事もなかった。
だが三日目の夜。
湯船に浸かっていたFさんは、ふと足首のあたりにふわっとした違和感を覚えた。
毛布の端が肌に触れたような、くすぐったい感覚。
手を伸ばして確かめても何もなく、浴槽の底にも異常はなかった。
翌日もまた同じ時間に風呂へ入る。
すると今度はふくらはぎになにかが触れる。
びくっとして立ち上がり、湯を掻き分けて底を確認してもやはり何もない。
排水口にも詰まりはなく、髪の毛一筋も残っていなかった。
「気のせい…だよな」
そう自分に言い聞かせたが、それ以降、湯船に浸かるたびに何かが触れる感覚が続いた。
しかも触れてくる範囲は徐々に上がってきていた。
ふくらはぎから膝、太ももへと。
そしてある夜。
その日はやけに蒸し暑く、帰宅が遅かったFさんは、さっさと服を脱いで風呂に飛び込んだ。
湯に体を沈め目を閉じて息をつく。
その瞬間だった。
つっという感触と同時に、手首をがっちりと何かに掴まれた。
「うわっ!?」
驚いて腕を引き上げようとするが、びくともしない。
湯の中から、まるで誰かが引きずり込もうとしているかのようだった。
Fさんはパニックになり、全力で浴槽の縁にしがみつきながら叫び声を上げた。
バシャバシャと湯を撒き散らしながら暴れていると、ふと、白い顔が湯の底に浮かび上がっているのが見えた。
長い黒髪が水中で揺れ、その目だけが異様なほど開いていた。
口もぱくぱくと開いているが、声は聞こえない。
まるで何かを訴えているように。
ついに手首が放され、Fさんは脱衣所に転がり出るようにして逃げた。
浴室の扉を閉め、心臓を押さえて必死に呼吸を整える。
しばらくして恐る恐る扉を開けると、湯は静まり返っており、何事もなかったかのように平然としていた。
浴槽の底を覗く。
何もいない。
ただ水面に一本だけ、長い黒髪が浮かんでいた。
翌日からFさんは、シャワーだけで済ませるようになった。
あれ以来、浴槽には一度も湯を張っていない。
だが夜になると時折、風呂場から「ぽちゃん…ぽちゃん…」と水音がすることがあるという。