怖い話と怪談の処

ブログ名の最後の文字は(ところ)と読みます。怖い話や不思議な話が大好きな方、是非ご堪能下さい。記事への★ありがとうございます。

風呂の底

ネットで知り合ったFさんから聞いた話。

 

Fさんがそのアパートに引っ越してきたのは、仕事の都合で急遽決まった異動がきっかけだった。

築年数は古いが、内装はリフォーム済みで綺麗。

家賃も安く立地も悪くなかった。

ただひとつだけ気になるのは、入居時に管理会社の人が妙に念を押したことだった。

 

「お風呂、夜中には入らないほうがいいですよ。

…できればですけどね」

 

仕事柄、夜遅くにしか帰宅できないFさんには少々困った話だったが、忠告を無視して入浴を続けていた。

最初のうちは何事もなかった。

だが三日目の夜。

湯船に浸かっていたFさんは、ふと足首のあたりにふわっとした違和感を覚えた。

毛布の端が肌に触れたような、くすぐったい感覚。

手を伸ばして確かめても何もなく、浴槽の底にも異常はなかった。

 

翌日もまた同じ時間に風呂へ入る。

すると今度はふくらはぎになにかが触れる。

びくっとして立ち上がり、湯を掻き分けて底を確認してもやはり何もない。

排水口にも詰まりはなく、髪の毛一筋も残っていなかった。

「気のせい…だよな」

そう自分に言い聞かせたが、それ以降、湯船に浸かるたびに何かが触れる感覚が続いた。

しかも触れてくる範囲は徐々に上がってきていた。

ふくらはぎから膝、太ももへと。

 

そしてある夜。

その日はやけに蒸し暑く、帰宅が遅かったFさんは、さっさと服を脱いで風呂に飛び込んだ。

湯に体を沈め目を閉じて息をつく。

その瞬間だった。

つっという感触と同時に、手首をがっちりと何かに掴まれた。

「うわっ!?」

驚いて腕を引き上げようとするが、びくともしない。

湯の中から、まるで誰かが引きずり込もうとしているかのようだった。

Fさんはパニックになり、全力で浴槽の縁にしがみつきながら叫び声を上げた。

バシャバシャと湯を撒き散らしながら暴れていると、ふと、白い顔が湯の底に浮かび上がっているのが見えた。

長い黒髪が水中で揺れ、その目だけが異様なほど開いていた。

口もぱくぱくと開いているが、声は聞こえない。

まるで何かを訴えているように。

ついに手首が放され、Fさんは脱衣所に転がり出るようにして逃げた。

浴室の扉を閉め、心臓を押さえて必死に呼吸を整える。

 

しばらくして恐る恐る扉を開けると、湯は静まり返っており、何事もなかったかのように平然としていた。

浴槽の底を覗く。

何もいない。

ただ水面に一本だけ、長い黒髪が浮かんでいた。

 

翌日からFさんは、シャワーだけで済ませるようになった。

あれ以来、浴槽には一度も湯を張っていない。

だが夜になると時折、風呂場から「ぽちゃん…ぽちゃん…」と水音がすることがあるという。