Eさんが転勤を機に引っ越したのは、地方のとある町にある古びた一軒家だった。
家賃は月2万円。
風呂トイレ付きで、間取りも一人暮らしには十分。
築年数は古いものの、特に事故物件などの説明もなかった。
最初の一週間は特に問題もなかった。
静かな環境で、仕事から帰ってはテレビを見て寝るだけの生活。
だがある晩、眠りかけたEさんの耳に声が届いた。
「おかえりなさい」
それは玄関の方から聞こえてきた。
思わず目を開けたが家には鍵もかけてあるし、誰かがいるような気配はなかった。
最初は夢かと思った。
あるいは外を通る誰かの声が聞こえただけか、と。
けれどそれから数日後、また同じように寝ているとき。
「おかえりなさい」
囁くような、でも確かに耳元に届く声がした。
起き上がって電気をつけても、部屋には誰もいない。
玄関も締め切られており、特に異変はない。
不思議に思いつつも、Eさんは「気のせい」で済ませていた。
しかし、その声は何日かおきに繰り返された。
決まって深夜2時前後、うとうとしていると「おかえりなさい」という女の声が、玄関から聞こえてくる。
次第に夢ではないかもしれない━━と思い始めたEさんは、ある晩、スマホの録音アプリを起動したまま眠ることにした。
翌朝、再生してみると、そこには━━
「おかえりなさい」
確かに声が入っていた。
録音には続けて、「トン、トン、トン…」と廊下を歩く足音。
さらには台所で、ガチャガチャと食器をいじるような音まで。
耳を澄ませて何度も聞いたが、それは現実の音だった。
音が聞こえ始めた時間は深夜1時57分。
Eさんが熟睡していたはずの時間帯だった。
怖くなった。
だが月2万円の家賃という安さ、そしてすぐに新しい物件が見つかるわけでもない現実もある。
しばらくは様子を見るしかない、と腹をくくった。
声は聞こえているが害はなかった。
ただ「おかえりなさい」と告げ、台所で音を立ててやがて消える。
数週間もすると、Eさんはその声を無視して眠れるようになっていた。
ある日、友人にその話をしたところ「よく住んでいられるな」と驚かれた。
そのときEさんは少し笑ってこう答えたという。
「人間、何でも慣れちゃうもんなんだよ」
不思議なことに、それ以降声も足音もぱたりと聞こえなくなった。
録音しても何も入らない。
台所にも何の異変も起きない。
今もEさんはその家に住んでいるという。