Kさんが小学生の頃に体験した話。
当時住んでいたのは、山あいにある静かな集落だった。
街灯も少なく、夜になると辺りは真っ暗になったが、自然に囲まれたのどかな場所だったという。
その村には、少し変わった風習があった。
「影送り」と呼ばれるもので、夕暮れ時に自分の影を踏みながら「さようなら」と唱えることで、一日分の厄を影に流して追い出すというものだった。
ただし、年に何日か「影送りをしてはいけない日」がある、と大人たちは言っていた。
Kさんはその理由を深く聞いたことはなかった。
ただ「そういう日もあるらしい」とぼんやり覚えていた程度だった。
その日も茜色の夕日が山の端に沈みかけていた。
Kさんと友人のTさん、Yさんは、学校帰りの田んぼ道でふざけながら、長く伸びた影を踏み合って遊んでいた。
「さようなら~、オレの影~」
そんなふうに茶化しながら、自分の影を踏んでは笑い合っていた。
その時、田んぼのあぜ道にいた年配の女性が、眉をひそめて言った。
「…あんたたち、今日はあかん日やで。もうやめとき」
Kさんたちは一瞬戸惑ったが、笑って誤魔化しながらその場を離れた。
その晩から奇妙なことが起こる。
夕方、部屋で壁に映る自分の影を何気なく見ていると、その足元にもうひとつ、小さな影がついていた。
最初は見間違いかと思った。
だが翌日も影の形がおかしかった。
腕を動かすと影の動きが一瞬だけ遅れるのだ。
さらに数日後、背中のあたり、肩越しに何かが乗っているような膨らみが影に映り始めた。
鏡を見ても何も映っていない。
だが夕暮れ時の影だけが妙に重たそうで、形が曖昧だった。
「…誰かの影が混じってる」
そう気づいたのは、学校の廊下で夕日が差し込んだときだった。
Kさんの影の横に、明らかに別の顔がついていた。
髪が長く、じっと前を見ているような。
びっくりして周りを見渡したが、周囲には誰もいなかった。
ただ、壁に映るそのもうひとつの顔だけが、静かにKさんを見つめていた。
家に帰って祖母にそれを話すと、祖母は顔を強張らせた。
「影送りしてしもたんか…その日は混じり日やったんや…」
混じり日──影の向こう側から、この世に残りたがっているものが紛れ込んでくる日。
そんな日に影を踏んで送り出すと、自分の代わりにその何かが、影にしがみついて残ってしまうのだという。
「どうしたらいいの?」
そう尋ねたKさんに祖母は言った。
「朝一番の光で影を洗うんや。
東の陽が昇る時、ぐるりと回りながら戻れって言うんやで」
翌朝、Kさんは東の空が明るくなるのを待ち、ぐるりと周りながら「戻れ」と叫んだ。
その瞬間、足元の空気が一瞬だけ、ぞっとするほど冷たくなった気がした。
ふと影を見るともう自分の影だけだった。
それ以来、影に異変が起こることはなかったそうだ。
けれどKさんは、夕暮れ時の帰り道でふと立ち止まってしまうことがある。
長く伸びる自分の影の端に、何かが待っているような気配を今でも感じてしまうのだという。