建設会社で働くSさんは、夜の現場作業を終えた帰り道、唐突にラーメンが食べたくなった。
時計を見ると午前1時をまわっていた。
普段ならまっすぐ帰宅する時間だが、その夜は空腹が勝っていた。
車を運転しながら見慣れぬ路地にハンドルを切った。
住宅街の裏手に入ると急に街灯がまばらになり、あたりは薄暗くひっそりとしていた。
そんな中、一つだけぽつんと明かりのついた古い木造の建物が目に入った。
看板は薄れて文字が読みづらかったが、暖簾には確かにこう書いてあった。
「ととの屋」
昔ながらの雰囲気にひかれて、Sさんは車を停めて店に入った。
戸を開けると店内は驚くほど静かだった。
客は一人もいない。
カウンターの奥には年配の男がひとり立っていて、Sさんが腰を下ろすと、黙って湯気の立つ丼を差し出した。
「これ、注文してないけど」
そう思ったが店主は何も言わず、ただSさんをじっと見ていた。
仕方なく箸を取り、ラーメンをひとくち啜った瞬間、懐かしさが全身を包み込んだ。
ああ、この味━━昔、祖父に連れて行ってもらった近所の屋台ラーメン。
その味にそっくりだった。
Sさんは無言のまま丼を空にし、目頭を押さえながら立ち上がった。
「ごちそうさまでした…」
そう言って振り返ると、扉の外は濃い霧に包まれていた。
霧の向こうには何も見えない。
音もしない。風すら吹いていなかった。
一歩外へ出ると、湿った空気が肌にまとわりついてくる。
異様な静けさと白い靄の中、Sさんは店のまわりを見渡したが、すぐに背後で木の軋む音がした。
振り返るとそこにはもう店がなかった。
ただの砂利敷きの駐車場があるだけ。
暖簾も、看板も、ラーメンの香りさえも残っていない。
「…え?」
声を出したその瞬間、世界がぐにゃりと揺れた気がした。
気づけばSさんは会社近くのコンビニの前に立っていた。
手には、割り箸が入っているのラーメンの丼が握られていた。
だが、よく見るとそれはどこかで見た使い捨ての弁当容器。
中身は空だった。
Sさんは丼をそっとゴミ箱に捨てた。
割り箸は冷たく濡れていて、塩気を帯びたような匂いがした。
その後、どれだけ探しても「ととの屋」という店は見つからなかったという。