怖い話と怪談の処

ブログ名の最後の文字は(ところ)と読みます。怖い話や不思議な話が大好きな方、是非ご堪能下さい。記事への★ありがとうございます。

【不思議な話】ととの屋

建設会社で働くSさんは、夜の現場作業を終えた帰り道、唐突にラーメンが食べたくなった。

時計を見ると午前1時をまわっていた。

普段ならまっすぐ帰宅する時間だが、その夜は空腹が勝っていた。

車を運転しながら見慣れぬ路地にハンドルを切った。

 

住宅街の裏手に入ると急に街灯がまばらになり、あたりは薄暗くひっそりとしていた。

そんな中、一つだけぽつんと明かりのついた古い木造の建物が目に入った。

看板は薄れて文字が読みづらかったが、暖簾には確かにこう書いてあった。

「ととの屋」

昔ながらの雰囲気にひかれて、Sさんは車を停めて店に入った。

戸を開けると店内は驚くほど静かだった。

客は一人もいない。

カウンターの奥には年配の男がひとり立っていて、Sさんが腰を下ろすと、黙って湯気の立つ丼を差し出した。

「これ、注文してないけど」

そう思ったが店主は何も言わず、ただSさんをじっと見ていた。

仕方なく箸を取り、ラーメンをひとくち啜った瞬間、懐かしさが全身を包み込んだ。

ああ、この味━━昔、祖父に連れて行ってもらった近所の屋台ラーメン。

その味にそっくりだった。

Sさんは無言のまま丼を空にし、目頭を押さえながら立ち上がった。

「ごちそうさまでした…」

そう言って振り返ると、扉の外は濃い霧に包まれていた。

霧の向こうには何も見えない。

音もしない。風すら吹いていなかった。

 

一歩外へ出ると、湿った空気が肌にまとわりついてくる。

異様な静けさと白い靄の中、Sさんは店のまわりを見渡したが、すぐに背後で木の軋む音がした。

振り返るとそこにはもう店がなかった。

ただの砂利敷きの駐車場があるだけ。

暖簾も、看板も、ラーメンの香りさえも残っていない。

「…え?」

声を出したその瞬間、世界がぐにゃりと揺れた気がした。

 

気づけばSさんは会社近くのコンビニの前に立っていた。

手には、割り箸が入っているのラーメンの丼が握られていた。

だが、よく見るとそれはどこかで見た使い捨ての弁当容器。

中身は空だった。

Sさんは丼をそっとゴミ箱に捨てた。

割り箸は冷たく濡れていて、塩気を帯びたような匂いがした。

 

その後、どれだけ探しても「ととの屋」という店は見つからなかったという。