
介護施設で夜勤を終えた早朝、Yさんは車で自宅に向かっていた。
眠気のせいでまぶたが重く、ナビの音もぼんやりとしか頭に入ってこなかった。
次第に記憶が曖昧になり、気づいたときには見覚えのない小道を走っていた。
舗装はされているが道幅は狭く、両側には杉の木が立ち並ぶ山裾の道。
ナビには何の表示もなく、「ルートを外れました」とだけ繰り返している。
引き返そうと考えたとき、ふいに視界が開けた。
「霧の見える丘」と書かれた小さな木の看板と、古びた休憩所がそこにあった。
半円状のベンチ、コイン式の望遠鏡、そして寂しげに立つ自販機。
朝焼けの光が辺りを照らしていた。
赤く染まった雲が空に広がり、眼下には霧が薄く漂う山並み。
その光景は不思議と美しく、現実感がないほどだった。
「少しだけ…」そう思い、Yさんはベンチに腰を下ろした。
だが、いつまでも空が明けなかった。
鳥の声もしない。風の気配もない。
ただ朝焼けのまま時間が止まったようだった。
ふと立ち上がって自販機に目を向けたとき、違和感が襲ってきた。
並んでいるボタンのラベルがどれもおかしい。
「おかえり用」
「帰りたくない用」
「まだいたい用」
「なにもいらない用」
見間違いかと思ったが、何度見てもそう書いてある。
缶の色もすべて真っ白で、絵柄やロゴは一切ない。
戸惑いながらも、Yさんは「おかえり用」のボタンを押してみた。
機械音と共に落ちてきた缶は、驚くほど冷たく、プルタブを開けて匂いを嗅いでみたが無臭だった。
恐る恐る一口だけ飲んだ瞬間、意識がぐらりと揺れ、視界がぼやけた。
次に気がついたとき、彼は自宅の駐車場でハンドルを握っていた。
エンジンは切れており、朝の光が普通に差し込んでいた。
霧の丘も、休憩所も、朝焼けも、すべて夢だったのか?そう思いかけたとき、助手席に落ちていた白い缶が目に入った。
無地の缶。
冷たさはすでに失われていたが、たしかにそこにある。
それを見つめながらYさんはぼそりと呟いた。
「もし、あの時帰りたくない用を選んでたら…どうなってたんでしょうね」
その言葉と共に、Yさんは小さく身震いした。
ここから先はYさんが「帰りたくない用」を選んだらどうなったか?という話を、同僚に創作してもらったという話になります。
「そのことを同僚に話したんですよ。
あの朝焼けのままの休憩所、自販機、そしておかえり用の缶の話まで。
そしたらひとりが冗談交じりに言ったんです。
『もし帰りたくない用を選んでたら、どうなってたと思う?』って」
そう語るYさんは少しだけ口角を上げたが、どこか引きつったような笑みだった。
「で、彼が話してくれたんですよ。
『じゃあそのifバージョン、俺が作ってやる』って。
創作だって前置きしてくれましたけどね。
でも、正直あんまり冗談に聞こえなかったんです」
以下はその創作という体裁で語られた話である。
夜勤明けのYさんは、眠気の中で霧の見える丘に辿り着く。
夢のような景色と、異常な静寂。
そして自販機の不気味なラベル。
その中で、Yさんは「帰りたくない用」のボタンに指を伸ばした。
「どうせなら、もうちょっとここにいたいかも」
━━そんな気分だったという。
缶は冷たく無味無臭だったが、飲み干すと同時に空気が一変した。
朝焼けが色を失い、すべてが灰色に染まっていく。
空も、木々も、ベンチも、自分の手も。
風が吹かず、時間が止まったままの世界に音も匂いもなかった。
どれくらい座っていたのか分からないが、やがて誰かの気配を感じた。
背後に立っていたのは、真っ黒な制服を着た顔のない男だった。
その男が無言で缶を回収し、ポケットから別の缶を差し出した。
「これを飲むともっと帰れなくなるよ」
口がないのにそんな声が聞こえた気がした。
拒もうとしたが、気づくと手にはその缶が握られていた。
再び飲んだ瞬間、視界が歪み、Yさんは自分のいない日常に立っていた。
施設にはYさんのロッカーが残っていたが、誰も彼を覚えていなかった。
実家に戻っても、家族は見知らぬ住人に変わっており、彼を不審者として通報した。
鏡を見ると、顔は自分のままだが、瞳に霧のような白い膜が浮かんでいたという。
行き場を失ったYさんは、あの休憩所へ戻ろうと山道を彷徨った。
だが、もうその場所は二度と現れなかった。
最後の場面で、彼は灰色の世界の片隅に座っていた。
何人もの顔のない人々が、ベンチに並んで座っている。
皆、自販機の白い缶を手に、じっと朝焼けの空を眺めていた。
終わらない帰りたくない朝の中で。
「その話を聞いたあと、なんだか自分の手にあった白い缶が、ただの缶じゃない気がしてきたんです」
Yさんはそう言って少し目を伏せた。
「創作のはずなのに景色の描写とか、自販機のボタンの感じとか、妙に細かくて…本当にあいつ、ただの想像で言ったのかなって」