MさんがまだIT企業に勤めていた頃の話。
その日は大規模な障害対応で、終電間際まで一人オフィスに残っていた。
Mさんが働いていたのは、都心にある築30年のオフィスビルの5階だった。
普段は賑やかなフロアも、夜になると照明が落とされ、外の灯りだけがぼんやり反射している。
深夜0時をまわりようやく全ての作業が片付き、Mさんは静かに椅子から立ち上がった。
ノートPCをカバンに収め、薄暗い廊下を抜けてエレベーターに乗り込む。
行き先ボタンで「1」を押し、ややくたびれたエレベーターがガクン、と音を立てて降下を始めた。
だが、ビルの階数を知っているはずのMさんが、思わず眉をひそめた。
エレベーターが途中で止まり、表示ランプが「3.5F」を示していたのだ。
そんな階層は存在しない。
建築図面を何度も見たことがあるMさんは、その数字に一瞬フリーズした。
扉が静かに開く。
目の前には他の階とは違う、古びたオフィスの廊下が広がっていた。
天井は低く、非常灯の緑がくすんで見える。
床はカーペットのようだが、歩けばコンクリートを踏むような音がしそうだった。
「何だここ」
Mさんは一歩足を踏み出した。
すると奥から「カチカチカチ、チン…ジィー」と、何かが打ち付けられるような規則的な音が響いてきた。
その音に導かれるように、彼は廊下の突き当たりにある扉を開いた。
中は無人のオフィス。
薄っすらと明るい手前のオフィスを覗いて見たのだが、誰も見当たらない。
古臭い木製の机が無数に並んでおり、それぞれの上には黒光りするタイプライターが置かれている。
だが誰もいないのに、タイプライターのキーが勝手に打ち込まれていた。
カチカチカチ、チン…。
どのタイプライターも、自動的に何かを打ち続けている。
しかもその音は一定のリズムではなく、何かを話すように、時に急ぎ、時に詰まりながら断続的に続いていた。
紙が挿さっているものもあった。
気になったMさんは、オフィスに音を立てずに入り、一枚だけ見てみると━━そこには「あっちの世界の人が迷い込んだようだ」と書かれていた。
「え?」
その瞬間、背後でドアが軋んだ音を立てて閉まり、部屋のどこかで誰かの靴音がコツンと鳴った。
誰かがいる。
Mさんは慌ててドアを開けて廊下へと出て、エレベーターに駆け戻った。
閉じるボタンを何度も押している最中も、オフィスの方から足音が近づいてくる。
早く閉まってくれと焦っていると、やっとドアが閉まり下降し始めた。
安堵の息を吐き、1Fに着いた後は走って敷地を出た。
途中、ビルを振り返るといつもの外観…のはずだったが、その時だけは、4階と3階の間にもう一列、他の窓とは違う古い見た目の窓が見えたという。
そしてそこだけ、ぼんやりと灯りがついていたらしい。
後日、ビルの管理会社に「3.5F」の存在について聞いてみたが、当然ながらそんな階は「存在しません」と即答された。
「残業のしすぎで疲れてたんだろ」と周囲は笑ったが、Mさんはその日以降、決してひとりで遅くまで残らなくなったという。