
Kさんは一人旅が趣味だった。
人混みを避け、ふと目に留まった古びた旅館のホームページを頼りに、車で山道を登った。
着いたのは、周囲を杉林に囲まれた旅館。
木造三階建てで、表には「創業明治二十年」の看板が色褪せて掲げられていた。
受付で出迎えたのは無口な初老の男性。
必要最小限の挨拶の後、部屋の鍵と一枚の紙を差し出してきた。
「こちら、避難経路の見取り図です。万が一のときのためにご確認を」
部屋は二階の角部屋。
障子の先には苔むした庭が見え、夜になると虫の声だけがやけに響いた。
夕食を済ませ、布団に寝転がったKさんは、ふと渡された見取り図を手に取った。
ざっと目を通した後、ある記載に目が留まった。
「地下通路」と「第2浴場」。
いま現在、旅館の案内には浴場は一つだけと書かれていたし、地下などある気配はなかった。
気になってフロントに下り、先ほどの男性に尋ねてみた。
「この地下通路って、今もあるんですか?」
男は一瞬、表情を凍らせた。
「ああ、それ…すみません。それは古い図面です。
第2浴場も地下通路も今はもう使っていません」
その返答にはどこか慌てたような色が混じっていた。
「取り替えておきますので」と見取り図を取り上げられたKさんは、それ以上問いただすのも気が引けて部屋へ戻った。
夜、0時を回ったころだった。
外は真っ暗で、窓の向こうには何も見えなかった。
布団に入りながらうつらうつらとしていたその時
水を掻く音が、どこか下の階から微かに聞こえてきた。
最初は気のせいかと思った。
だが、次第にそれは明確になっていく。
「ちゃぷ…ちゃぽ…」
それに続くように数人の笑い声。
大勢の声が混じっていて、どこか懐かしいような、くぐもったような響き方をしていた。
Kさんは起き上がり廊下に出てみた。だが建物はしんと静まり返っている。
ほかの客室から物音はしない。
階段をそっと降りて一階の廊下に足を踏み入れた瞬間、足元にひやりとした空気がまとわりついた。
廊下の奥に、さっきは気づかなかった引き戸があった。
そのすぐ脇に、「※立入禁止」の小さな札がぶら下がっている。
なぜかその引き戸の下から、うっすらと湯気が漏れていた。
水音はそこから聞こえてくる。
Kさんは手を伸ばしかけたが直前で思いとどまり、自室へ戻った。
翌朝、昨夜の音のことを管理人に尋ねると、まるで聞きたくないものを聞かされたような顔をして、首を横に振るだけだった。
「他のお客様がいらっしゃったかもしれませんね」
とだけ言い残し話は打ち切られた。
帰り際、Kさんはふと思い出し、もう一度見取り図を見せてほしいと頼んだ。
だが、渡されたものには「地下通路」も「第2浴場」も載っていなかった。
あの夜、自分が見たものはなんだったのか。
数日後、ネットでその旅館の口コミを探したKさんは、一つだけ妙な投稿を見つけた。
《地下の浴場に降りてみたら、女湯の方から笑い声がしました。
懐かしい歌が聞こえました。
でもフロントに戻って尋ねたら、「うちはそんな場所ありません」って言われた。》
日付は1年前。
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