フリーライターのHさんから聞いた話。
Hさんはいつものように、カフェで原稿と睨めっこしながら次の企画について考えていた。
今回は過疎化が進む日本の現状を探るべく、とある山奥の廃村を取材することになっていた。
都会の喧騒から離れ、静かに考え事をするのは嫌いじゃなかった。
むしろそういう場所でこそ、良いアイデアが浮かぶこともあった。
取材当日、Hさんは愛車を走らせていた。
ナビが示す道は次第に舗装が荒くなり、すれ違う車もほとんどなくなる。
深い山の中へと分け入っていくにつれて、鬱蒼とした木々が日の光を遮り、辺りは薄暗くなっていった。
窓を開けるとひんやりとした空気が流れ込み、土と草の匂いが鼻をくすぐる。
都会では感じられない独特の匂いだった。
目的の廃村まであと少しというところで、Hさんはふと、左手に真新しい舗装路が分岐しているのを見つけた。
カーナビには表示されていない道だった。
最近できたのだろうか。
それにしては道の入口には何の案内もない。
ただアスファルトが綺麗に敷かれ、山の奥へとまっすぐ伸びているだけだった。
「どこに続く道なんだろう?」
Hさんは少し気になった。好奇心がムズムズと湧いてくる。
廃村の取材は後でもできる。
せっかくだから、ちょっとだけ寄り道してみようか。
そう思ってHさんはハンドルを切った。
新しい道は驚くほどなめらかで走りやすい。
ただどこまで行っても景色は変わらず、ひたすら深い森の中を進んでいく。
しばらく走っても人の気配は全くない。
集落らしきものも建物一つ見当たらない。
その時だった。
車の窓を少し開けていたHさんの耳に「ヒュッ、ヒュッ」という音が微かに聞こえてきた。
風の音だろうか?でも風にしては妙に規則的で、まるで誰かが息を吸い込むような、不気味な音に聞こえた。
Hさんは少し不審に思ったが、気にせずそのまま車を走らせた。
ところがその音は徐々に大きくなっていった。
最初は遠くで聞こえていたのに、いつの間にか車のすぐ近く、まるで車のすぐ後に誰かがいるかのように聞こえる。
いや車の後どころか、後部座席から聞こえてくるような気さえした。
「ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ…」
規則的な音が、Hさんの耳元で響く。
車の窓を閉めようかとも思ったが、なぜかボタンが反応しない。
ルームミラーで後ろを確認してみても、そこにはただ森の風景が映っているだけだ。
誰もいない。
でも音は確かに聞こえている。
Hさんは急に背筋が凍りついた。
これは風の音なんかじゃない。
何かがHさんの車のすぐ後ろにいる。
そう確信した瞬間、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
心臓がドクドクと大きく脈打つ。
Hさんは、これ以上この道を走るのは危険だと本能的に感じた。
すぐにでも引き返さなければ。
そう決意し路肩に車を寄せ、急いで切り返す。
音はさらに大きくなったように感じた。
「ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ…」
Hさんはパニック寸前だった。
なんとか切り返しが終わると、来た道を猛スピードで引き返した。
バックミラーを何度も確認しながら、あの真新しい道を走り抜ける。
心臓は爆発しそうだった。
なんとか分岐点まで戻り、元の舗装路に合流した時、Hさんは安堵のため息を漏らした。
あの不気味な音は、元の道に戻ると同時にピタリと止んでいた。
数日後、Hさんは予定通り廃村の取材を終え、その集落で生まれ育ったというTさんに話を聞く機会を得た。
Tさんは80歳を過ぎた老婆で、山の歴史に詳しかった。
Hさんは、思い切ってあの道の話を切り出した。
「実は、この村に来る途中、カーナビにない真新しい道を見つけまして。
少し進んでみたんですが、変な音が聞こえてきて…」
Hさんの話を聞いたTさんの顔色は、みるみるうちに青ざめていった。
「それは山が呼んでるんだ。
山には招かれざる客を誘い込む場所がある。
そこに呼ばれてしまったら、もう戻ってこれないんだよ」
HさんはTさんの言葉に、体の芯から冷たいものが走った。
あの時、もしHさんがもう少し進んでいたらどうなっていたのか。
Hさんは今でも、あの道の先に何が待ち受けていたのかと考えると、ぞっとするそうだ。