都内のIT企業で働く、KさんとTさんが体験した話。
KさんとTさんは同僚で、普段はパソコンの画面と向き合い、コードを打ち込む毎日を送っている。
そんな二人が、たまには都会の喧騒から離れてリフレッシュしようと、会社の有給を使って登山に出かけた。
選んだのはそれほど人も多くないとされる、静かな山だった。
数時間の登山を終え、夕方には目的地の山小屋に到着する予定だった。
山道は想像以上に厳しく、到着する頃にはもう日が傾き、辺りは薄暗くなり始めていた。
ようやくたどり着いた山小屋は、想像していたよりもずっと古びていて、どこか寂れた雰囲気が漂っていた。
「管理人室…誰もいないな」
Kさんが入り口近くの小さな部屋を覗き込むと、無人を示す張り紙があるだけだった。
どうやらこの山小屋は、セルフサービスで利用する無人小屋らしい。
疲労困憊の二人は、とりあえず今日一晩をここで過ごすことにした。
10月という事もあり、小屋の中はひんやりとしていて、ストーブの用意もなかったが、持参した寝袋と防寒着でなんとか凌げるだろうと判断した。
簡単な夕食を済ませ、早々に寝袋に潜り込んだ。
Tさんは普段からよく眠るタイプで、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。
Kさんも登山の疲れで体は重く、あっという間に深い眠りに落ちていった。
どれくらいの時間が経ったのか、Kさんは何か物音で目を覚ました。
時計を見ると、深夜の2時を少し過ぎた頃だった。
真っ暗な小屋の中で耳を澄ます。
「ザザァ…」
窓の外から妙な音が聞こえる。
最初は風の音かと思った。
山では風が強く吹くことなんてよくあるので、最初はそう自分に言い聞かせた。
しかし、その音は風が木々を揺らす音とは少し違っていた。
もっと人工的で、何かを擦り合わせるような不気味な音だった。
音は小屋の窓のすぐ外から聞こえている。
Kさんは寝袋の中で体を丸め、ゆっくりと音のする窓の方に目を向けた。
真っ暗で何も見えない。
でも音は確かにその方向から聞こえてくる。
まるで誰かがゆっくりと、そして執拗に小屋の壁を撫でているかのように聞こえる。
「ザザァ…ザザァ…」
その音を聞いていると、Kさんは不安になり始めた。
これはただの風じゃない。Kさんは直感的にそう感じた。
隣でスヤスヤと眠るTさんを起こそうと手を伸ばしたが、なぜか体が動かない。
恐怖で全身が硬直し、指先一つ動かせなかった。
そのうち擦れる音に混じり、別の音が聞こえ始めた。
「ブツブツ…ブツブツ…」
意味不明な低い囁き声だった。
何を言っているのか全く聞き取れない。
しかし、その不明瞭な声が耳の奥にまとわりつくように響いてくる。
まるで小屋の外にいる何かが、Kさんに語りかけているかのようだ。
Kさんは全身鳥肌が立つような感覚に襲われた。
声の主が誰なのか、そして何を囁いているのか知りたくない。
知りたくないけれど、なぜか耳を塞ぐことすらできない。
ただその不気味な音と囁き声に、じっと耐えるしかなかった。
時間が永遠のように感じられた。
どれだけそうしていただろうか。
Kさんは、怖くて寝袋を頭からすっぽりかぶり、息をひそめて朝が来るのを待った。
耳元で聞こえる音と囁きは、朝になるまでずっと止まらなかった。
夜が明け、小屋の中がうっすらと明るくなり始めた頃、ようやく音と囁き声はピタリと止んだ。
Kさんは恐る恐る寝袋から顔を出す。
外はまだ薄暗いが、夜の闇は消えていた。
安堵と疲労で、Kさんはそのまま意識を失うように再び眠りに落ちた。
目が覚めるとTさんはもう起きていて、朝食の準備を始めていた。
「K、よく寝てたな。もう朝だぞ」
TさんはKさんの顔を見て笑った。
Kさんは昨晩の出来事をTさんに話したが、Tさんは何も聞いていなかったと言う。
Kさんの話もまるで信じない様子だった。
「夢でも見てたんじゃないか?お前、疲れてるんだよ」
そう言って笑うTさんに、Kさんはそれ以上何も言えなかった。