Sさんは、地方の市で運営されている図書館の職員だった。
いつも閉館時間まで利用者がいる賑やかな場所も、夜が更ければしんと静まり返り、冷たい空気が張り詰める。
この日も月末の資料整理に追われ、Sさんは一人残業をしていた。
時間はもう、とっくに日付が変わろうとしている頃だ。
カチカチと壁掛け時計の秒針が進む音だけが、やけに大きく響く。
館内の照明は最低限しかついておらず、本棚の隙間には濃い影が落ちていた。
その時だった。
「ひそひそ…」
どこからともなく微かな声が聞こえてきた。
Sさんは思わず手を止め耳を澄ます。
まさかこんな時間まで誰かが残っているのだろうか?
「ひそひそ…」
やはり聞こえる。
それもどうやら一人ではないようだ。
Sさんは首を傾げた。
もし利用者が残っていたらとっくに警備員が気づくはずだし、そもそももうとっくに閉館時間だ。
他の職員が残っている気配もない。
「ひそひそ、ひそ…」
声は図書館の奥、一番古い資料が並べられている棚の方から聞こえてくる。
普段はあまり人が近づかない、埃っぽい場所だ。
Sさんは胸に言い知れぬ不安を感じながらも、好奇心には勝てなかった。
誰かがこんな時間まで残っているのかもしれない。
何か困っているのかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、Sさんは懐中電灯を手に、ゆっくりと声のする方へと足を進めた。
一歩、また一歩と進むたびに、ひそひそ声は徐々に鮮明になっていく。
それはまるで何人もの人間が同時に囁いているような、不気味なものだった。
しかし言葉にはなっていない。
ただ意味不明な音の羅列が、Sさんの鼓膜を震わせる。
古い木製の床がきしむ音だけがSさんの足元から響く。
ひそひそ声はもうすぐそこまで迫っていた。奥の本棚の隙間からその声が漏れ出している。
Sさんはごくりと唾を飲み込んだ。
震える手で懐中電灯を構え、意を決して本棚の隙間を覗き込んだ。
そこには…半透明の黒い影がいた。
それは人の形をしているようにも、そうでないようにも見える、曖昧な輪郭だった。
影は本棚の奥でゆらゆらと揺らめいている。
そしてその影から、あの不気味なひそひそ声が発せられているのだ、とSさんは直感的に理解した。
影はSさんが覗き込んだことに気づいたのか、ゆっくりとこちらへ向きを変えた。
その時、Sさんの脳裏にぞっとするような感覚が走った。
影の内部がまるで墨汁が溶け込んだ水のように、ゆっくりと渦巻いているのが見えたのだ。
恐怖で体が硬直し、Sさんは動けなかった。
懐中電灯の光が、影に吸い込まれていくように弱まっていく気がした。
ひそひそ声はさらに大きくなり、Sさんの頭の中で響き渡る。
それはもはや囁きというよりも、大勢の人間が同時に呼吸をするような、粘着質な音に変わっていた。
Sさんは、どうにかその場から逃げ出さなければと本能的に思った。
しかし足は鉛のように重く、一歩も動かせない。
影はさらにSさんに近づいてくる。
その存在が急速に色濃くなっていくのがわかる。
「ヒソヒソ…」
声がすぐ耳元で聞こえたような気がした。
Sさんは目をぎゅっと閉じ、その場にへたり込んだ。
意識が遠のいていく。
次にSさんが意識を取り戻した時、外はすでに白み始めていた。
Sさんは図書館の床に倒れ込んでいた。
体中が冷え切り、頭にはガンガンと痛みが走る。
恐る恐る目を開けて周りを見渡すが、あの影の姿はどこにもない。
あれは夢だったのだろうか?
Sさんは震える手で懐中電灯を探した。
見つからない。
しかしその手は、なぜかべとべととした粘着質な感触に覆われていた。
Sさんは慌てて自分の手をじっと見つめた。
そこには何もついていない。しかし手のひらにはずっと残っていた。
まるで何かの粘液に触れたような、あの不快な感触が。
Sさんはそれからというもの、夜の図書館に一人で残業することができなくなった。
そして時折、耳の奥であの不気味なひそひそ声が聞こえるような気がするという。