「これは、私がまだ若手の美術教師だった頃の話です」
美術の授業の終わり、生徒たちにせがまれて、K先生は少しばかり声を潜めてそう語り始めた。
冬の時期という事もあり、教室の窓の外はすでに夕焼けが暗くなり始めていた。
その日、K先生は提出物の確認が終わらず、珍しく夜遅くまで学校に残っていた。
職員室で最後の書類に目を通し、ふと、美術室に大切な画材を忘れてきたことに気づいたのは、夜の9時を回った頃だった。
「まあすぐに済むだろう」
そう軽く考えて、K先生は美術室へと向かった。
人けのない廊下はひんやりとしていて、自分の足音だけがやけに大きく響く。
美術室に近づくにつれ、K先生は奇妙な音に気が付いた。
それは重たいものが床をゆっくりと引きずるような、「ズズ…、ズズ…」という音だった。
まさか生徒がまだ中にいるのか?いや、もうこんな時間だ。
考えたくはなかったが、泥棒という可能性も頭をよぎった。
美術室には生徒たちが制作した貴重な作品や、高価な画材も置いてある。
K先生は息を潜め、音のする美術室のドアに近づいた。
ドアには中を覗ける小さな四角い窓がついている。
K先生は、そっとその窓に顔を近づけた。
薄暗い。
外の月明かりが、美術室の中にぼんやりと照らしている。
しかしそのわずかな光の中で、K先生は黒い影がゆっくりと動いているのを見た。
それは床を這うように、よろめきながら進んでいるように見えた。
「泥棒だ!」
K先生はそう確信した。
大切な美術室を守らなければ。
そう思った瞬間、K先生は躊躇なくドアの取っ手を掴み、勢いよく「ガラガラ!」と音を立ててドアを開け放った。
「誰だ!」
と同時に、壁の電気のスイッチを勢いよく入れた。
「パチン」という音と共に、美術室全体が明るく照らされる。
K先生は目を凝らして室内を見渡した。
すると美術室の奥、いつも様々な石膏像が飾られている一角、その中に置かれた大きな胸像が、まるでゆっくりと歩を進めていたかのように、わずかに体勢を崩して立っていた。
そして電気がついたことに気づいたのか、その動きはピタリと止まった。
他の生徒の姿はない。
泥棒らしき人物も見当たらない。
ただ白い石膏でできたはずの胸像が、薄暗い中で黒い影をまとっているように見えたこと、そして確かに「ズズ…」という引きずるような音を立てていたことだけが、K先生の脳裏に焼き付いていた。
電気の光に照らされた石膏像は、無表情でこちらを見ているように思えた。
K先生は先ほどの音が一体何だったのか、理解することができなかった。
ただの気のせいだったのだろうか?暗闇の中で見間違い、聞き間違いをしただけなのだろうか?
しかしあの時、確かに動く影を見た。
そして重たいものを引きずるような音も聞いた。
それらはK先生の記憶から、鮮明で消えることはなかったという。
その後K先生は美術室を隅々まで調べたが、異状は何も見つからなかった。
ただその胸像が元の位置から動いていたのみ。
結局、その夜の出来事は、K先生にとって永遠の謎として残ったそうだ。