H先生から聞いた話。
H先生は都心から少し離れた、私立高校のベテラン音楽教師だった。
普段は穏やかなH先生だが、生徒指導には人一倍熱心で、生徒たちの些細な変化も見逃さない。
その日は新入生を交えた恒例の夏期合宿で、H先生は引率として山奥のキャンプ場に来ていた。
まだ少し肌寒さが残る夜、生徒たちは焚き火を囲んで、それぞれ持ってきた怖い話を披露し合っていた。
H先生も懐かしさに浸りながら、生徒たちの屈託のない笑顔を眺めていた。
焚き火の炎がパチパチと音を立て、夜の闇を明るく照らしていた。
H先生の周りには生徒のSさん、Tさん、そして普段は少し落ち着きのないCさんたちが、楽しそうに身を寄せ合っている。
彼らの顔は炎の明かりで赤く染まり、笑い声が静かな森に響き渡る。
H先生はそんな生徒たちの姿を見て、心の底からこの合宿に来てよかったと感じていた。
その時だった。
H先生は、ふと焚き火の向こうの暗闇に、誰かの視線を感じた。
ゾクリと背筋が冷たくなるような感覚だ。
目を凝らしてみるが、そこにはただ濃密な闇が広がっているだけだ。
H先生は疲れているのかもしれない、と軽く首を振った。
生徒の一人が、古い村にまつわる呪いの話を始めた。
その話が佳境に入った時、H先生は再び焚き火の炎に照らされた生徒たちの中に、見覚えのない子が混ざっていることに気づいた。
その子はH先生が見たこともない子いた。
しかし、周囲の生徒たちは誰もその子の存在に気づいていないようだ。
H先生はまさか新入生の中に、こんな子がいたのか、と思った。
その子は他の生徒たちのように話に夢中になることもなく、ただじっと焚き火の炎を見つめている。
その表情はどこか遠い場所を見ているようで、感情が読み取れない。
H先生は少し心配になり、優しく声をかけた。
「君、新入生かな?怖い話苦手だったら耳を塞いでてもいいよ」
しかしその子は何も答えない。
H先生がもう一度声をかけようとした、その時。
その子はまるで煙のように、ゆらりと姿を消した。
焚き火の炎が急に大きく燃え上がり、その煙がその子を隠すかのように舞い上がる。
H先生は思わず目を見開いた。
「え?」
H先生が驚いている間にも、生徒たちの話し声は途切れることなく続いていた。
誰も今目の前で起こったことに気づいていない。
H先生は疲労から幻覚を見たのか、と自分に言い聞かせた。
しかし見覚えのない子の存在は、あまりにも現実味を帯びていた。
その夜、H先生はなかなか寝付けなかった。
あの見覚えのない子の姿が脳裏から離れない。
次の日の朝、生徒たちが朝食の準備を始めた頃、H先生は合宿の参加者名簿を改めて確認した。
名前を確認しながらそれぞれの顔を思い浮かべる、だがあの夜見た子の名前は見つからなかった。
名簿に載っている生徒の数は、H先生が知っている数と寸分違わない。
一体あの夜誰を見たのか。
そしてなぜ自分にだけ、あの姿が見えたのか。
あの焚き火の向こうの闇に潜むものは何だったのか。
H先生は生徒たちには何も言わなかった。