これはSさんから聞いた話。
Sさんは大学のサークル仲間と、K県にあるT沢の奥のキャンプ場によく行っていた。
その日も中の良いメンバーと川沿いでキャンプを楽しんでいた。
夜が更け、山の中は冷え込みを増していた。
大学生のSさんたちは、川沿いのキャンプ場で焚き火を囲んでいた。
パチパチと音を立てて燃える炎が、彼らの顔を赤く照らす。
昼間は賑やかだった川のせせらぎも、夜になるとどこか不気味な響きに変わっていた。
「Tさん、薪が減ってきたので取って」
Mさんがそう言って、Tさんのそばに積み上げられた薪を指さした。
Tさんが、ちょっと待ってろと言って立ち上がった、その時だった。
ゴボ…ゴボゴボ…という、不気味な音が川から聞こえた。
それは水底から湧き上がるような、異様な音だった。
Sさんたちは「何の音だ?」と騒ぎ出し、Tさんは興味津々に懐中電灯を手に川の方へと向かった。
するとその光の中に、信じられないものが浮かび上がった。
川の中を何かが泳いでいる。
それは人間のような形をしていた。
しかしその動きはあまりにも不自然で、ゆらゆらと、まるで糸で操られているかのようだった。
水面に現れたその「顔」らしきものは、暗闇に溶け込むように不明瞭で、目鼻立ちもはっきりとは見えなかった。
ただこちらを見ているかのような気がして、Sさんたちは固まってしまった。
…人間じゃない。
Tさんが川辺から動けずにいる。
懐中電灯の光は、あの「何か」の輪郭をぼんやりと照らしていたが、それが何であるかは分からなかった。
肌のようなものが見えたかと思えば、魚の鱗のようにも見えた。
手足のようなものが水中にゆっくり揺れているのが見えたが、それが左右どちらかも分からなかった。
「戻れ!T、戻ってこい!」
Mさんが震える声で叫んだ瞬間、何かが川の中でドボンッ!と跳ねた。
Tさんが慌てて戻ってきた。
その顔は蒼白で、しきりに首を振っていた。
「違う…あれ、人じゃない…人じゃなかった!」
焚き火の光が激しく揺れ始めた。
風など吹いていないのに、炎がまるで誰かに煽られているかのように暴れている。
Sさんがふと背後に目を向けた。
そこには何もないはずの木々の間に━━誰かが立っていた。
白い服。びしょ濡れの髪。背の高い女のようだった。
でも、顔がない。
いや、見えないんじゃなくて、ずっと真下を向いたまま、髪が濡れたまま垂れ下がり、動かずに立っているだけだった。
そしてSさんは気づいた。それは「川から」来たものではない。
最初からそこにいた。
彼らが焚き火を囲んだその瞬間から、じっとそこに立って見ていたのだ。
「逃げよう!」
誰かがそう叫んだ瞬間、焚き火がボウッ!と音を立てて大きくなり、そして次の瞬間にはまるで風に吹き消されたように一瞬で消えた。
完全な暗闇。
川の音だけが、ゴボ…ゴボゴボ…と、再び響き始める。
その音は水の中の泡ではなかった。
誰かが喉の奥で呻いているような、低く濁った声に聞こえた。
Sさんたちは、懐中電灯で車の置いてある方向へ走り出した。
何度も木の根につまずき、服を枝に引っかけながらも、叫び声をあげることすらできず、とにかく逃げた。
後ろを振り向いた者はいなかった。
「振り向くな」と、誰かが言ったような気がしたのだ。
翌朝、ようやく明るくなってから彼らはキャンプ場に戻った。
テントは荒らされておらず、荷物もそのままだった。
ただ一つだけ異常があった。
焚き火の跡のすぐ隣に、水で濡れた足跡が並んでいた。
素足だった。
しかもその数が、彼らの人数より一つ多かったという。
「Sさん、その後は?」
その話を聞いたとき、思わずそう聞き返した。
けれどSさんは、ぽつりとこう言った。
「いや、あの時のあれ以来、T沢には誰も近づかなくなったよ。
俺も行ってない。
…だってあれ、最後にひとりだけついてきてたみたいなんだよ」
そう言って、Sさんは自分の肩をさすった。
━━濡れた手形が、まだそこに残っているように見えた。