これはTさんが体験した、ある秋の夜の出来事。
Tさんは地元で写真を趣味にしており、その日は神無月の澄んだ夜空を撮ろうと、人気のない山中にひっそりと佇む古い神社を訪れた。
木々に囲まれた参道を進み、石段を上がると、月明かりに照らされた拝殿が見えてきた。
神社には誰もおらず、しんと冷たい空気が境内を満たしていた。
Tさんは三脚を立て、夜の社の風情を何枚か撮影していたが、ふと視線の端で何かが揺れた気がした。
気になって社の奥にある本殿の方を覗くと、普段は固く閉ざされているはずの扉が、わずかに開いていた。
妙に生温い空気がそこから流れてくる。
「誰かいるのか?」
そう呟きながらTさんがカメラのズームで覗き込むと、薄暗い本殿の中にそれが見えた。
御神体の置かれるべき場所に、黒ずんだ布のようなものをかぶった「何か」が、じっと座っていた。
手足は見えない。
だが頭のような形だけがゆらりと、わずかに動いた。
その顔には目も鼻も口もなかった。
Tさんは息を呑んだ。
レンズ越しにそれと目が合った━━ような錯覚に陥り、慌てて目を逸らした。
次の瞬間、カメラが「カシャッ」とシャッターを切った。
自分の指が動いたのではなかった。
撮らされた、というべきだった。
Tさんはそのまま一目散に神社を離れた。
翌朝、気になってもう一度神社を訪れると、本殿の扉は固く閉じられていた。
昨夜とは打って変わって、まるで最初から何も起きていなかったかのように、穏やかで静まり返った境内。
だが本殿の柱に一枚の紙が貼られていた。
まるで和紙のような古びたそれには、墨でこう書かれていた。
「黙っておけ」
鳥居をくぐり、帰ろうとしたとき。Tさんはカメラのメモリを確認してみた。
昨夜撮ったはずの写真は、一枚も残っていなかった。
ただ、保存された画像フォルダの最下部に、見覚えのない写真が一枚だけあった。
それは真っ黒な画面の中に、白くにじんだ何かが写っていた。
目を凝らすと、それは「顔のない何か」がこちらに向かって座っている写真だった。
シャッターを押したときよりも、ぐっとこちらに近づいていた。
Tさんはその日から、神無月の日は神社の写真を撮ることをやめたという。