Sさんがその廃旅館を見つけたのは、ネット掲示板の古い書き込みがきっかけだった。
「〇〇温泉の外れに、開かずの間がある旅館がある。
御札が貼られていて、絶対に入っちゃダメって地元の人が言ってる」
半信半疑で訪れたその廃旅館は、崩れた瓦と蔦に覆われながらも存在していた。
昭和の終わりに閉業したらしく、看板の文字も掠れていたが、「なつめや旅館」と読めた。
建物は老朽化が進んでいたが、2階奥の一室だけが異様に保存状態が良かった。
その襖にはいくつもの御札が乱雑に貼り付けられ、そこだけ異様な圧を放っていた。
「イッテハイケナイ」「シズメヨ」「サワルナ」
墨で書かれた警告の文字。
だがそのうちの一枚が、風でめくれ上がっていた。
興味を抑えきれず、Sさんはその隙間から中を覗いてしまった。
━━そこだけ空間が違っている。
埃一つない畳。ちゃぶ台。ラジオ。
まるで昭和初期の民家の一室のようだった。
さっきまでの荒廃した旅館とは明らかに雰囲気が違っていた。
何かに誘われるように、Sさんは襖を開けた。
中に入った瞬間、空気がぬるりと変わった。
ちゃぶ台の前に誰かが座っている。戦前の学生服のような黒い詰襟。
帽子を被ったままのその男は、顔がどこかぼやけていたが、目だけがはっきりとこちらを見ている。
男は口を動かし始めたが、声が出ていない。
何かを伝えようとしているように、口の動きだけが何度も繰り返される。
だがSさんには、何を言っているのか聞こえない。
次第に、周囲の空気がぶわりと波打った。
時計の針が逆回転を始め、ラジオからはノイズ混じりの音が流れ始めた。
「…き…ざ…よ…」どこかで聞いたような言葉が、かすかに混じっている。
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
気がつくとSさんは旅館の廊下に一人で立っていた。
気になってもう一度2階にあがり、さっきの部屋を探したが、あの部屋の扉はもう存在しなかった。
そこはただの打ちっぱなしのコンクリート壁になっていた。
周りを見渡していると、足元に古びた白黒写真が落ちていた。
ちゃぶ台の前で座る詰襟の男。
以後、Sさんの部屋では、夜になると必ず「かすれた声」が聞こえるようになった。
何を言っているのかは分からない。
けれどその口調は、こちらに向かって語りかけているそうだ。