深夜1時、Wさんは郊外にあると噂される「旧◯◯大学の寮跡」に足を踏み入れた。
取り壊しが決まり、今は誰も寄りつかない建物。
だが廃墟マニアの間では、有名な心霊スポットとして密かに知られていた。
建物は3階建てで、窓ガラスは割れ、鉄製の階段は赤錆でところどころ崩れていた。
風が吹くたび、金属音とともにどこからかガタガタと軋む音がする。
その寮跡は当時不慮の事故に遭う者が多かったとか、窓から飛び降りた学生の霊が出るとか、さまざまな噂があったが、Wさんはそれらを半信半疑で聞きながらも、実際にその場所へと足を運んだ。
懐中電灯を片手に長い廊下を進む。
扉がずらりと並ぶ光景は、かつての学生たちの暮らしを感じさせるが、今はひっそりとした空虚な箱に過ぎなかった。
そのとき、廊下の先に何かがいた。
人影のようなものがぼんやりと立っている。
半透明。
その姿はうっすらと背景が透け、廊下の床のラインがその体を通して見えた。
光を反射するでもなく、ただそこにいる。
そして顔らしき部分の中で、目だけがはっきりとこちらを向いていた。
「なんだあれ?」
Wさんは思わず立ち止まりライトを向けた。
その瞬間、影のようなそれは、すっと滑るように動き出した。
浮いているようにも見えるが、確かに歩いている。だが足音は一切ない。
Wさんは背筋を凍らせながら近くの一室に飛び込んだ。
ドアを閉め、鍵がないのを確認し手で押さえる。
しばらくは何も起こらなかった。
しかし
「ガチャ…ガチャ…」
外からドアノブをゆっくりと、確かめるように回す音が聞こえた。
ぐるり…ぐるり…ゆっくりと執拗に。
Wさんは息を殺し、目を閉じて身を固めた。
数分が永遠にも感じられたあと、音は止まった。
Wさんは念のためしばらく待ち、そっと扉を開けて廊下に出た。
そこには何もいなかった。
ただ床の奥の方に、微かに黒い濡れたような跡が点々と残っていた。
逃げるように建物を出てふり返る。
建物の玄関にある重たい鉄扉、そのノブの部分にくっきりと黒い手形が残されていた。
濡れているような、まるで油か血か分からない液体が、指の一本一本まで鮮明に浮かんでいた。
帰宅後、Wさんはその晩一睡もできなかった。
瞼を閉じるたびに、あの目だけがはっきりと見えた顔が浮かんでくる。
翌朝、仕事に出ようと車のドアを開けようとしたとき、車のドアノブに黒い手形が付いていた。