社会人のKさんは、新しい生活を始めるため、築年数の経ったアパートの一室に引っ越してきた。
駅からも近く家賃も手頃。多少の古さは承知の上だった。
引っ越し作業を終え、荷解きを始めたKさんは、ふと隣の部屋から聞こえる「ギィ…ギィ…」という小さな軋み音に気づいた。
最初はただの生活音だと思った。
古いアパートなら、隣人の出す物音が多少響くのは仕方がない。
Kさんは特に気にせず荷解きを続けた。
しかしその軋み音は、Kさんがキッチンに立つと止み、リビングに戻るとまた聞こえ始めるという、奇妙なタイミングで繰り返されるようになった。
Kさんが冷蔵庫の扉を開ける音、カップを置く音、テレビをつける音。
まるでKさんの行動に合わせるかのように、「ギィ…ギィ…」という音が、壁の向こうから響いてくる。
Kさんは、「気のせいだろう」と自分に言い聞かせた。
疲れのせいで音が耳につくだけだと。
だがある夜、Kさんが寝室の電気を消した途端、隣の部屋から聞こえてきた軋み音は、明らかにKさんの寝室の壁から聞こえるような距離に感じられた。
まるで隣人がKさんの壁で、何かをしているほどの近さだった。
その夜からKさんは隣の部屋の音が気になって、なかなか寝付けなくなった。
翌日、Kさんは隣の部屋の住人に挨拶に行こうと決めた。
どんな人が住んでいるのか分かれば、この不気味な感覚も少しは和らぐかもしれないと思ったのだ。
しかし隣の部屋のドアには、ポストに溜まったチラシが挟まったままで、どう見ても人が住んでいる気配はなかった。
Kさんは首を傾げた。
もし空室ならあの音は何なのだろうか。
風のいたずらだと思ったが、風が家の中で軋み音を立てる道理はない。
それから数日後、軋み音はさらに規則性を帯び始めた。
Kさんが朝、目覚まし時計を止めると、すぐに「ギィ…ギィ…」。
シャワーを浴びると水の音に合わせて「ギィ、ギィ、ギィ…」。
Kさんが歯磨きを始めると、歯ブラシの音に合わせて「ギィ…ギィ…」。
それはまるで、Kさんの生活音を正確に真似しているかのようだった。
Kさんは鏡に向かって独り言を言ってみた。
「今日は何を着ようかな」。
すると壁の向こうから、まるでKさんの声の抑揚に合わせて、「ギィ…、ギィ…ギィ…」と返事が返ってくるような気がした。
Kさんは次第にノイローゼになりかけた。
友人に相談しても、「古いアパートだからだよ」「気にしすぎだよ」と笑われるばかりで、誰も真剣に取り合ってくれなかった。
Kさんは、自分がまるで透明な壁の中に閉じ込められ、常に何かに監視されているような感覚に囚われた。
ある日、Kさんは部屋に誰かを招き入れることにした。
会社の同僚であるOさんだ。
Oさんは呑気な性格で、きっとこのアパートの奇妙な音など気にしないだろうと思ったのだ。
Oさんが部屋にいる間、軋み音は一切聞こえなかった。
Kさんは安堵した。やはり自分の気のせいだったのだ。
しかしOさんが帰り、部屋に一人になった途端、軋み音は再び始まった。
今度は以前よりも大きく、まるでKさんの耳元で囁かれているかのような音量だった。
「ギィィィィィィ…ギィィィィィィ…」。
その音は、Kさんの心臓の音とシンクロしているようだった。
Kさんは、自分以外の誰にも聞こえないこの音に、完全に精神を蝕まれていくのを感じた。
ある夜、Kさんはついに限界を迎えた。
軋み音は止むことなく、まるでKさんの精神を揺さぶるかのように響き続けていた。
Kさんは壁に向かって叫んだ。
「やめてくれ!一体何がしたいんだ!」
その途端、軋み音はぴたりと止まった。
しかしKさんは安堵するどころか、体の芯から凍りつくような恐怖を感じた。
これまで聞こえていた音が止まった瞬間に、それが「生きている」ことを確信したのだ。
そしてその静寂の中でKさんの耳に、ゆっくりと、はっきりと、微かな囁き声が聞こえた。
「あなたの…すべてを…」
それは聞き取れない不明瞭な、しかし確かにKさんの言葉への返答だった。
Kさんはそのアパートから逃げ出すように引っ越した。
新しい住まいでは、隣の部屋から聞こえる音は、ただの生活音だった。
だがKさんは時折、壁の向こうからあの「ギィ…ギィ…」という軋み音が、かすかに聞こえてくるような錯覚に陥ることがあるそうだ。