大学生のTさんは、休日の骨董市をぶらつくのが好きだった。
古いものに宿る物語を想像するのが、Tさんにとって至福の時間だったのだ。
その日も埃っぽい露店を眺めていると、Tさんの目に一冊の古びた包みが留まった。
黄ばんだ和紙で丁寧に包まれ、紐で結ばれたそれは日記のような、あるいは手紙のような何かの束だった。
値札には「手紙束時代不詳」とだけ書かれていた。
Tさんは何かに導かれるようにそれを買った。
自宅に戻り、Tさんは丁寧に和紙を解いた。
中には達筆な崩し字で綴られた、おびただしい数の手紙が入っていた。
どれもこれも、百年前のものと思われるほどに古く、紙は脆く、独特の黴の匂いがした。
差出人の名前はなく、ただ「〇〇殿」と記された私信のようなものだった。
最初は、ただの歴史的な資料として読み始めた。
手紙の書き手は、どうやら地方の旧家に仕える女性のようで、日々の出来事を細やかに綴っていた。
しかし数通読み進めるうちに、Tさんの背筋に冷たいものが走った。
手紙の記述が、徐々に奇妙な現象について触れ始めていたのだ。
「…此の頃、夜な夜な屋敷の奥より、微かな物音が聞こえ申候。
風の音かと存じましたが、どうにも…」
Tさんはまるで自分が見聞きしているかのように、その文面を追った。
そしてその夜、Tさんのアパートの奥から、かすかな、しかし確かに「カタ…カタ…」という物音が聞こえてきた。
Tさんのアパートは比較的新しく、そのような音がするような場所ではない。
その音は手紙の記述と寸分違わぬように感じられた。
それからも手紙を読み進めるたびに、奇妙な出来事がTさんの周りで起こり始めた。
手紙に「障子の影が、人の形に見え申候」とあれば、Tさんの部屋の障子に、ぼんやりと人影のようなものが浮かび上がる。
手紙に「食事の膳に、見知らぬ髪の毛が混じりており候」とあれば、Tさんの朝食の皿に、見覚えのない長い髪の毛が一本、絡まっている。
それはどれもこれも、ごく些細なことばかりだった。
だが、それが手紙の記述と完全に一致しているという事実が、Tさんの心をじわじわと蝕んでいった。
Tさんは手紙を読むのを止めようとした。
これは呪いだ、と本能が警告していた。
だが、一度読み始めたら止められない衝動に駆られた。
手紙の書き手が、まるでTさんのすぐ隣で、呼吸しているかのように感じられたのだ。
手紙を置くと耳元で「読め」というような、聞き取れない囁きが聞こえる気がした。
その声はTさんの頭から離れなかった。
友人のFさんに相談してみたが、Fさんは「面白いじゃん!もっと読めよ!」と無責任なことを言うばかり。
Tさんは、一人でこの奇妙な現象と向き合うしかなかった。
手紙の記述は、次第に陰惨なものへと変わっていった。
書き手は屋敷の中で起こる不可解な出来事に怯え、精神的に追い詰められていく様子が生々しく綴られていた。
「夜ごと何者かの視線を感じ、寝覚め悪く候」
「障子の向こうに何かが動く気配。されどそこには静寂のみ」
そしてある日の手紙には、こう記されていた。
「私の影が、私のものでなくなり申した。
鏡に映る影は私とは違う、別の者の形をしており候…」
その手紙を読み終えた瞬間、Tさんは洗面所の鏡を見た。
そこに映る自分の影は、確かにTさんの動きに追従している。
だがそれはまるで、Tさんの影の輪郭が、ほんのわずかに別の人の形を帯びているかのように見えた。
Kさんは背後を確かめたが、そこはシンと静まり返っていた。
しかし、影はTさんの影と別の何かの影が、二重に重なっているようにも見えた。
それは気のせいだ、とTさんは強く思った。
しかし、その夜からTさんの影が時折、Tさんの意識とは無関係にわずかに揺らぐようになった。
Tさんが立ち止まっているのに、影だけが小刻みに震えている。
Tさんが腕を上げたのに、影だけが少し遅れて動く。
Tさんは、自分が手紙の書き手と同じ運命を辿っているのだと悟った。
百年前の怪異が手紙を通して、現代のTさんの日常を侵食しているのだ。
まるで手紙の書き手の呪いが、Tさんへと連鎖しているかのように。
最後に読み終えた手紙には、ただ一言、震える文字で書かれていた。
「私は、私でなくなり候…」
その手紙を読んだ後、Tさんは自分の行動が、まるで誰かに操られているかのように感じることが増えた。
朝目覚めると、なぜか自分の部屋の家具の配置が、ほんの少しだけ変わっている。
コーヒーを淹れるために手を伸ばすと、なぜか普段とは違う棚からカップを取ってしまう。
それらはごく些細な違和感だったが、Tさんの精神を確実に蝕んでいった。
そしてある日のことだった。
Tさんは大学の講義室で、ふと自分のノートを見た。
そこに書かれていた文字は、確かに自分の筆跡のはずなのに、まるで百年前の古い手紙の書き手の文字と瓜二つになっていたのだ。
Tさんはそのノートをゆっくりと閉じ、震える手でそれを強く握りしめた。