怖い話と怪談の処

あなたが今読んだその話、本当に「作り話」だと言い切れますか?

閉ざされた記憶の家

結婚を間近に控えたSさんたちは、新しい生活のために郊外に理想の一軒家を見つけた。

大きな庭があり陽当たりも良く、何より価格が手頃だったのが決め手だった。

築年数はそれなりに経っていたが、リフォームされており、すぐにでも住める状態だった。

Sさんは、これから始まる新婚生活への期待に胸を膨らませていた。

 

引っ越してきて数日後、Sさんはリビングの窓辺に立って庭を眺めていた。

すると、ふと胸の奥に甘酸っぱいような、切ないような、しかし覚えのない感情が込み上げてきた。

まるで遠い昔に経験したことがあるような、懐かしい感覚だった。

Sさんは首を傾げたが、すぐに「引っ越しの疲れのせいだろう」と気にしなかった。

風のせいだろう、と気にしなかった。

 

しかし、その感覚は特定の場所で繰り返されるようになった。

玄関の上がり框に立つと、なぜか幼い子供の笑い声が聞こえるような気がする。

もちろん実際に音が聞こえるわけではない。

頭の中にまるで残響のように響くのだ。

寝室のクローゼットの前に立つと、突然、激しい怒りや、誰かに罵倒されるような嫌悪感が湧き上がってくる。

最初は気のせいだと思っていたが、それは日に日に鮮明になり、Sさんの精神を静かに蝕んでいった。

 

ある日、SさんのパートナーであるMさんも、似たような体験をしていることが判明した。

Mさんは、書斎に足を踏み入れるたびに、胸が締め付けられるような悲しみに襲われるという。

特に書斎の隅にある小さなシミのあたりに立つと、誰かがうずくまって泣いているような光景が、一瞬だけ脳裏をよぎるのだという。

Sさんたちは、もしかしたら以前の住人の「記憶」のようなものが残っているのかもしれない、と冗談交じりに話し合った。

しかし、それは冗談では済まされない事態へと発展していく。

 

その記憶は、単なる感情や光景のフラッシュバックに留まらなかった。

Sさんがキッチンで料理をしていると、突然、別の誰かの手の動きが自分の手の動きと重なるような錯覚に陥る。

包丁を握る手が、まるで自分の意志ではないかのように、一瞬だけ不自然な動きをするのだ。

Mさんも風呂場で体を洗っていると、シャワーの湯気の中に、見知らぬ女の背中がうっすらと浮かび上がることがあるという。

振り返っても人影は見当たらなかった。

背後には、ただ暗闇が広がっているだけだった。

 

家の中の特定の場所に立つと、まるで透明なフィルターがかかったかのように、以前の住人の生活の痕跡がSさんたちの目に映るようになった。

壁に飾られていたであろう古い家族写真の枠、暖炉のそばに置かれていたロッキングチェアの窪み、子供が背比べをした跡のような壁の傷。

それらは物理的には存在しないはずなのに、Sさんたちの目にははっきりと見え、まるで自分たちがその場所で生活していたかのように感じられるようになった。

そしてその記憶は、Sさんたちの関係にも影響を及ぼし始めた。

 

SさんがMさんに何気なく話しかけた言葉が、以前の住人の夫婦が交わした会話の断片と酷似していることに気づいたのだ。

あるいは、些細なことで口論になった際、自分たちが発した言葉が、その家で過去に繰り広げられた口論の言葉と、寸分違わないことに気づいた。

それはまるで、二人が以前の住人の人生を追体験しているかのようだった。

 

ある夜、Sさんは寝室で眠っていた。

すると夢うつつのまどろみの中で、誰かのすすり泣く声が聞こえてきた。

それはSさんの声ではない。

そしてその声は、Sさんの隣で眠っているMさんの声でもなかった。

Sさんは目を開けたが、そこには静寂のみ。

しかし、すすり泣く声はSさんの耳元で、かすかに、しかし確実に響き続けていた。

それは聞き取れない不明瞭な囁きだったが、その声が自分たちの寝室の壁の中から聞こえていることを、Sさんは確信した。

 

Sさんたちはその家を売却しようと試みた。

しかしなぜか買手がつかない。

内見に来る人々は皆、共通して「なんだか居心地が悪い」「ここにいると落ち着かない」と口々に言った。

中には、「古い感情が残っているような気がする」と言う人もいた。

 

Sさんたちは、その家から逃れることができないと悟り始めていた。

彼らの精神は、すでに以前の住人の記憶に深く侵食され、自分たちが誰なのか、何を感じているのか、境界が曖昧になってきていた。

Sさんの脳裏には、自分がかつて見たことのない、しかし確かにその家で暮らしていた「誰か」の最期の光景が鮮明に浮かび上がることが増えた。

それは喜びや悲しみ、怒りや絶望といった、人間のあらゆる感情が凝縮された、まるで映画の一場面のような光景だった。

 

そして、Sさんがある部屋の特定の場所で、無意識のうちに、以前の住人が残したはずの言葉を口にした時、その言葉はSさんの口から発せられたものではないかのように、冷たく響いた。