登山とソロキャンプが趣味のIさんは、週末を利用して県境の山奥へと向かった。
この辺りは標高が高く夜間はかなり冷え込むが、その分、人も少なく静けさに包まれている。
焚き火を囲みながら湯を沸かし、コーヒーを飲みつつ本を読む──そんな時間が、Iさんにとって最高の癒やしだった。
日が落ちてから数時間が経ち、焚き火の火もだいぶ落ち着いた頃。
薪をくべながらIさんはふと、違和感を覚えた。
焚き火の隣、ちょうど自分の左手側に何かがいる気配がする。
じっとこちらを見ている、そんな視線の圧。
動物でも近づいたかと思い振り返るが、何もいな、。
木々は揺れていない。足音もない。
ただ、焚き火の燃える音だけが耳に残る。
だが空気に混じる匂いが違っていた。
焚き火の薪とは異なる焦げたような、髪が焼けたような臭いがふっと鼻を掠める。
次の瞬間、背筋に冷たい風が走り肌が粟立った。
その夜はなんとか寝袋に包まり眠ったが、翌朝、焚き火の灰の中に自分が入れた覚えのない炭が混ざっていた。
しかも形がどこかおかしい──何かの骨のようにも見えた。
次の週、Iさんはまた同じ場所を訪れた。
気味は悪かったが、それでもあの静けさと自然の中にいる時間を手放すことができなかった。
同じように焚き火を囲み、夜を過ごす。
月明かりもなく周囲は暗く沈んでいる。
火のはぜる音に紛れて、背後で何かが座る音がした。
土を押し潰すような、ごく小さな沈み。
また左隣に気配がある。
だが今回は振り返らなかった。見てはいけないという直感が働いた。
その代わり、恐る恐る焚き火の熱に意識を向けると──
…おかしい。
こんなに近くにいるのに、熱が感じられない。
むしろ、体温がじわじわと吸われていくような感覚があった。
手足の先から指先へ、芯から冷えていく。
吐く息も白く濃くなっていき、心臓の鼓動が鈍く重くなる。
「すぐ、隣に、いる」
そんな声が、焚き火の奥から聞こえた気がした。
男とも女ともつかない、擦れた湿ったような声。
思わず立ち上がろうとして、足がもつれた。
そのとき、焚き火の火が「ぼうっ」と一瞬だけ高くなり、何かが黒く煙の中に立ち上がったように見えた。
瞬間、耳元に囁くような風が通り抜けた。
それ以降、Iさんは焚き火を囲むたびに、徐々に冷えやすくなっていった。
体の末端が異様に冷たく感じ、暖を取ってもなかなか戻らない。
そしてある夜。
いつものように火を囲んでいると、今度は右隣から気配がした。
熱が逃げるような冷たい風とともに、もう一つの声が囁いた。
「さむい…」
それが最期の記憶だったという。
後日、山小屋で凍死寸前のところを発見されたIさんは、そう語っていた。
けれど彼の座っていた右側には──炭のように焼けた地面が、人一人が座っていたように、ぽっかりと丸く黒く残っていたという。