これは私の友人の話。
彼は都会での生活に疲れて、田舎に移り住んだ。
築百年は経つだろうか、古い農家を改築した一軒家だった。
広い庭には、何十年も前からそこに立っていたらしい、大きなケヤキの木が一本、堂々とそびえ立っていた。
友人はその家を気に入り、快適な田舎暮らしを満喫していた。
特に気に入っていたのが、夕暮れ時の庭の景色だった。
太陽が西に傾くと大きなケヤキの木の影が、ゆっくりと家全体を覆い尽くしていく。
その光景は、まるで家が大きな影に包み込まれるようで、どこか神秘的でさえあったという。
異変が起こり始めたのは、友人が住み始めて半年ほど経った頃のことだった。
ある日、友人が夕食の準備をしている時、何気なく窓の外に目をやった。
ケヤキの木の影が、ちょうど台所の窓辺まで伸びていた時だった。
その影の中に、何か動くものが見えたのだ。
最初は猫かと思った。
友人は、野良猫が迷い込んできたのだろうと、特に気に留めなかった。
しかし、その影が、猫にしては不自然な動きをしていることに気づいた。
ゆらゆらと揺れる影は、まるで人の形をしているようだが、顔も体も真っ黒で輪郭もはっきりしない。
まさに「影」そのもの、としか言いようがなかった。
友人は目をこすった。
疲れているせいか、見間違いだろうと思ったのだ。
目をこすったあと見てみたが、特に変なものは見えなかったという。
次の日の夕暮れ時、またしても同じ影が現れた。
今度は昨日の場所よりも少しだけ、家の中央寄りにいた。
友人はさすがに気味が悪くなった。
何かの間違いだろうと自分に言い聞かせながらも、その影が気になって仕方がなかった。
その日から友人は毎日、夕暮れ時になると庭を眺めるようになった。
影は毎日少しずつ、本当に僅かずつだが、家の奥深くへと侵入してくるようになった。
最初は縁側だった。それが次の日には廊下まで伸びている。
そしてその次の日には、リビングの真ん中まで影が伸びていたのだ。
友人はその影を避けようと試みた。
影が伸びてくる方向に家具を置いたり、カーテンを閉めたりしたが、影はそれらを乗り越え、すり抜けるようにして侵入してきた。
また、影が触れた場所はひんやりと冷たく、氷に触れたかのようだったという。
ある夜、友人は寝室で眠っていた。
ふと目を覚ますと部屋の中が真っ暗だった。友人はいつも常夜灯を付けて寝るタイプで、真っ暗にした覚えがないそうだ。
おかしい、と思った瞬間、部屋の隅に大きな影が広がっていることに気づいた。
その影は部屋の壁や床を飲み込むかのように、ゆっくりと広がっていた。
そして影の中に、あの人の形をした影が立っているのが何故か見えた。
その影は、友人のベッドのすぐそばまで来ていた。
友人は、あまりの恐怖に声も出せず、ただ、震えながらその影を見つめるしかなかった。
その影は友人のそばに立つと、そのままゆっくりと友人の体を覆い始めた。
まるで、影の中へ引きずり込まれるかのように、意識は遠のいていった。
その時、友人の耳元で何か声のようなものが聞こえた気がした。
それは囁くような不明瞭な音だったが、確実に友人の耳に届いた。
しかし、その内容を理解することはできなかった。
翌朝、友人は意識を取り戻した。
部屋の中は元通りで影はどこにもなかった。
しかし友人の体は、影が触れた場所が冷たく、そして何もかもが「重く」感じられたという。
まるで、自分の一部が影に飲み込まれてしまったかのように。
その後、友人はその家を出て行った。
しかし、今でも夕暮れ時になると、自分の影が異常に長く伸びるような気がして、背筋が凍る、と話す。
そして自分の影が時折、ゆっくりと動いているような錯覚に陥るのだそうだ。