あれは私がこの図書館で働き始めて、まだ間もない頃だった。
その図書館は町外れにある古い洋館を改装したもので、夜になるとまるで生き物のように軋む音がする。
特に奥まった場所にある書庫は昼間でも薄暗く、いつもひっそりと静まり返っていた。
ある日のこと。
閉館時間を過ぎても、なぜか奥の書庫の電気が点いていることに気づいた。
普段なら館長さんか、ベテランのSさんが最終確認をするはずだった。
「もしかして消し忘れかな?」
私はそう思いながら、書庫へと続く長い廊下を歩いていった。
廊下には古びた絨毯が敷かれていて、私の足音さえも吸い込んでしまうようだった。
ただ自分の心臓の音だけが、ドクンドクンと大きく聞こえてくる。
書庫の入り口にたどり着くと、やはり電気は煌々と点いていた。
中を覗き込むと誰もいない。
ただ整然と並べられた本棚が、ずらりと奥まで続いている。
「あれ?」
私は首を傾げた。誰かがいる気配も作業をしている音もしない。
一歩、書庫の中へ足を踏み入れる。
ひんやりとした空気が肌を撫でた。本特有の少し埃っぽい匂いがする。
静かだった。あまりにも静かすぎて、耳鳴りがするような錯覚に陥るほどだ。
私はゆっくりと書庫の奥へと進んでいった。
本棚の隙間から漏れる光が、まるで迷路のように影を落としている。
その影が時折、何かの形に見えるような気がして、そのたびにドキリとした。
書庫の一番奥まで来ると、そこには古びた木製の梯子が立てかけられていた。
普段は使われることのない、高い場所にある棚に手が届くように、誰かが立てかけたのだろうか。
しかし、その梯子の下には小さな埃の塊がいくつか転がっているだけで、人の気配は全くない。
私はもう一度周りを見渡した。どこにも誰もいない。
「おかしいな…」
そう呟いたその時だった。
カサッ。
微かな音がすぐ背後から聞こえた。
私は息を飲む。
背後を確かめたが、そこはシンと静まり返っていた。
もう一度耳を澄ます。何も聞こえない。
気のせいかと思ったが、もう一度、カサッと確かに聞こえた。
それは紙が擦れるような、ページをめくってるような音。
心臓が、ドクン、ドクン、と大きく脈打つ。
私はゆっくりと音のした方へと顔を向けた。
本棚の隙間から、白いモヤがゆらゆらと揺れているのが見えた。
目を凝らすとそのモヤの中に、人の顔がうっすらと浮かび上がっているのが見えた。
それは表情の判別がつかないほど曖昧だが、確かに人の形をしていた。
私は思わずゴクリと喉を鳴らしてしまった。
その顔が私に気づいたその時、白いモヤは、すぅーっと、隣に並べられた一冊の古い本の中へ吸い込まれていった。
まるで水が砂に染み込むかのように、あっという間に消えてしまった。
私は凍りついたようにその場に立ち尽くしていた。
本が吸い込まれたはずの場所には、何の変哲もない、ただの古い本が並んでいるだけだった。
「だ、誰か…いらっしゃいますか?」
震える声で尋ねてみたが返事はない。
ただ静まり返った書庫に、私の声だけが虚しく響いた。
その日の夜はなかなか寝付けなかった。
あの時確かに見えた何か。一体何だったのだろう。
それ以来、私は夜の書庫に一人で入るのが少し怖くなった。