僕が務める会社は、ごく普通のオフィスビルに入っている。
毎日朝早くに出社して、夜遅くまで仕事に追われている。
そんな日常の中で、ある日些細な違和感に気づいた。
最初はただの気のせいだと思った。
終業間際に、フロアの奥にある誰も使っていないはずの給湯室から、かすかに水の音が聞こえた。
チョロチョロと、水道の蛇口を少しだけ開いたような音。
僕は気にせず仕事を続けていた。
終業時間になり、他の社員たちが帰り支度を始める中、僕はまだ残っていた。
少ししてその水の音がピタリと止んだ。
「誰か給湯室を使っていたのかな?」
そう思って給湯室のドアに目をやった。
しかしドアは閉まっていて、誰かが入っていくのを見ていない。
それに給湯室は普段からほとんど使われていない。
次の日もそのまた次の日も、同じようなことが続いた。
僕が一人で残業している時、決まって終業間際になると、給湯室からチョロチョロと水の音が聞こえてくる。
そして僕が「誰かいるのか」と意識するとピタリと止まる。
ある夜、僕は思い切って水の音がしている最中に給湯室のドアを開けてみた。
そこにはシンと静まり返った空間だけがあった。
水道の蛇口はしっかり閉まっている。水が滴ったような跡もない。
何もない。誰もいない。
それから給湯室の音がするたびに確かめたが、そこはシンと静まり返っていた。
僕の同僚であるTさんは僕よりも古株で、この会社に長く勤めている。
ある日、Tさんに「給湯室で変な音がする」と話してみた。
Tさんは少し眉をひそめて、
「ああ、給湯室の音ね…。あれ、昔からだよ」
そう言って少し遠い目をした。
Tさんの話によると、昔、この給湯室である社員が亡くなったらしい。
仕事のストレスが原因で、彼は夜遅くまで一人で残業していた時に、給湯室で亡くなったそうだ。
その話を聞いてから、僕は給湯室から水の音が聞こえるたびに、背筋が凍るような感覚に襲われるようになった。
それはまるでその社員が、今もそこにいるかのような…。
そして僕がその水の音に気づくと、彼は僕の存在に気づいて息を潜めているのではないか…。
そう思うと夜遅くまで会社に残るのがひどく怖くなった。