これは私がまだ前のオフィスビルで働いていた頃の話。
かなり古びたビルで、夜になると独特の静けさに包まれる場所だった。
私はその頃残業が多く、夜遅くまで一人で仕事をしていることがよくあった。
ある日、夜中の1時を過ぎた頃だろうか。
資料作成に集中していたのだが、ふと、キーボードを打つ指が止まった。
オフィス全体が、いつも以上に静まり返っていることに気づいたのだ。
静かすぎて、自分の心臓の音が聞こえるような気がした。
その時フロアの奥の方から、かすかに「パタ、パタ…」という音が聞こえてきた。
何の音だろう、と思った。
最初は誰かが残業していて、何かを落とした音か、あるいはエアコンの吹き出し口の音かと思ったのだが、その音は一定のリズムで、止まることなく続いていた。
私は気になってそっと耳を澄ませた。
音はゆっくりと、しかし確実にこちらに近づいてくるように感じた。
まるで誰かがスリッパでも履いて歩いているような音だ。
しかしこの時間、このフロアに私以外に人がいるはずがない。
背筋に冷たいものが走るのを感じた。
私は恐る恐る音のする方を振り返ったが、そこには誰もおらず、あるのは静まり返った空間だけだった。
廊下の照明は薄暗く、奥の方は闇に溶けている。
相変わらず音は止まらない。
むしろ、私のすぐ近くから聞こえてくるような気がしてきた。
まるで私の周りをゆっくりと回っているかのような錯覚に陥った。
私は呼吸を止めて、全身の感覚を研ぎ澄ませた。
するとその音が私の椅子のすぐ後ろ、背後から聞こえてくることに気づいた。
思わず首筋にぞわりとした悪寒が走った。
振り返りたいのに体が硬直して動かせない。
恐怖で全身から汗が噴き出すのを感じた。
その時、耳元ではっきりと、しかし意味の分からない低い声が聞こえた。
それは何かを語りかけているような、しかし決して聞き取れない、不気味な響きだった。
まるで古いラジオのノイズのような、ざらついた声だった。
私は悲鳴を上げそうになったが、声が出なかった。
ただ心臓が破裂しそうなほど、激しく打ち鳴らされるのが聞こえた。
そしてその声が聞こえなくなると同時に、あの「パタ、パタ」という音もぴたりと止んだ。
オフィスは再び深い静寂に包まれた。
どれくらいの時間、そうしていたのか分からない。
ただ、体が震えて止まらなかったのを覚えている。
私はすぐに荷物をまとめ、その場から逃げるようにオフィスを後にした。