怖い話と怪談の処

ブログ名の最後の文字は(ところ)と読みます。怖い話や不思議な話が大好きな方、是非ご堪能下さい。記事への★ありがとうございます。

這い上がってくる黒いもの

私の知人のSさんは一人暮らしの女性で、夜勤の仕事をしている。

そのため、夜中に一人で家にいることが多い。

古いアパートの2階に住んでいて、築年数が経っているせいか、隙間風の音がよく聞こえてくる。

 

ある日の夜、Sさんは仕事から帰宅しシャワーを浴びていた。

深夜2時を過ぎた頃で、あたりはシンと静まり返っている。

シャワーを終え体を拭いていると、ふと浴室のドアの向こうから、微かに何かの音が聞こえた気がした。

「…こ、こ、こ…」

それはまるで誰かが、息を潜めて何かを呟いているような、不明瞭な音だった。

Sさんは体を拭く手を止めた。

「気のせいかな…」

そう思い、もう一度耳を澄ますが何も聞こえない。

Sさんは少しだけ安堵し、服を着始めた。

 

その時だった。

浴室のドアの下の隙間から、何か黒いものがゆっくりと、にゅるりと這い出てきた。

それは細長く、まるで影が意思を持ったかのように蠢いている。

Sさんは息を呑んだ。恐怖で体が硬直し動けない。

黒いものは浴室の床を這い、Sさんの足元へと向かってくる。

それは真っ暗な影で、輪郭がはっきりしない。

しかし、そこから二つの赤い光が、じっとSさんを見つめているのが分かった。

まるで闇の中に浮かぶ瞳のようだった。

Sさんは悲鳴をあげそうになったが、喉が張り付いて声が出ない。

その赤い光が、まるでSさんの心を読み取っているかのように、ゆっくりと近づいてくる。

 

その影はSさんの足元に到達すると、そのまま足を這い上がってきた。

ひんやりとした冷たい感覚が、足首から太ももへと伝わってくる。

Sさんは必死に足を振り払おうとした。

しかし、影はまるで吸い付くかのようにSさんの体から離れない。

「いや…やめて…」

か細い声がようやく口から漏れた。

影はそのままSさんの腰、そして胸へと這い上がってくる。

その時、Sさんはあることに気づいた。

その影は、Sさんの体を這い上がってくるにつれて、少しずつ、Sさんの体の形に変化しているのだ。

 

Sさんの顔の高さまで到達した影は、Sさんの顔の輪郭をなぞるように蠢き、そしてその二つの赤い光は、Sさんの瞳の位置で止まった。

Sさんは目の前に迫った影の「瞳」を凝視した。

その赤く光る瞳の奥には、まるでSさん自身の顔が映し出されているかのように見えた。

それは恐怖に歪んだSさんの顔だった。

 

次の瞬間、Sさんのスマートフォンの着信音が鳴った。

画面を見ると、親友のMさんからの電話だった。

こんな夜中に電話が来るなんて滅多にないことだ。

その音にハッとしたSさんは、急いでその影から逃れようと体を動かした。

すると影はスルスルとSさんの体から離れ、浴室のドアの下の隙間へと戻っていく。

 

Sさんは呼吸を整える間もなく、震える手で電話に出た。

「もしもし?」

「Sさん!ごめん、こんな時間に。なんか急に胸騒ぎがしてさ…大丈夫?」

Mさんの声に、Sさんはようやく現実に戻ることができた。

Sさんは、Mさんに何も話せなかった。

ただ、「うん、大丈夫だよ」とだけ答えて電話を切った。

 

そして浴室のドアの隙間を見たが、そこにはもう何もいなかった。

それ以来、Sさんは夜中に一人でシャワーを浴びるのが怖くなったという。