私の知人のSさんは一人暮らしの女性で、夜勤の仕事をしている。
そのため、夜中に一人で家にいることが多い。
古いアパートの2階に住んでいて、築年数が経っているせいか、隙間風の音がよく聞こえてくる。
ある日の夜、Sさんは仕事から帰宅しシャワーを浴びていた。
深夜2時を過ぎた頃で、あたりはシンと静まり返っている。
シャワーを終え体を拭いていると、ふと浴室のドアの向こうから、微かに何かの音が聞こえた気がした。
「…こ、こ、こ…」
それはまるで誰かが、息を潜めて何かを呟いているような、不明瞭な音だった。
Sさんは体を拭く手を止めた。
「気のせいかな…」
そう思い、もう一度耳を澄ますが何も聞こえない。
Sさんは少しだけ安堵し、服を着始めた。
その時だった。
浴室のドアの下の隙間から、何か黒いものがゆっくりと、にゅるりと這い出てきた。
それは細長く、まるで影が意思を持ったかのように蠢いている。
Sさんは息を呑んだ。恐怖で体が硬直し動けない。
黒いものは浴室の床を這い、Sさんの足元へと向かってくる。
それは真っ暗な影で、輪郭がはっきりしない。
しかし、そこから二つの赤い光が、じっとSさんを見つめているのが分かった。
まるで闇の中に浮かぶ瞳のようだった。
Sさんは悲鳴をあげそうになったが、喉が張り付いて声が出ない。
その赤い光が、まるでSさんの心を読み取っているかのように、ゆっくりと近づいてくる。
その影はSさんの足元に到達すると、そのまま足を這い上がってきた。
ひんやりとした冷たい感覚が、足首から太ももへと伝わってくる。
Sさんは必死に足を振り払おうとした。
しかし、影はまるで吸い付くかのようにSさんの体から離れない。
「いや…やめて…」
か細い声がようやく口から漏れた。
影はそのままSさんの腰、そして胸へと這い上がってくる。
その時、Sさんはあることに気づいた。
その影は、Sさんの体を這い上がってくるにつれて、少しずつ、Sさんの体の形に変化しているのだ。
Sさんの顔の高さまで到達した影は、Sさんの顔の輪郭をなぞるように蠢き、そしてその二つの赤い光は、Sさんの瞳の位置で止まった。
Sさんは目の前に迫った影の「瞳」を凝視した。
その赤く光る瞳の奥には、まるでSさん自身の顔が映し出されているかのように見えた。
それは恐怖に歪んだSさんの顔だった。
次の瞬間、Sさんのスマートフォンの着信音が鳴った。
画面を見ると、親友のMさんからの電話だった。
こんな夜中に電話が来るなんて滅多にないことだ。
その音にハッとしたSさんは、急いでその影から逃れようと体を動かした。
すると影はスルスルとSさんの体から離れ、浴室のドアの下の隙間へと戻っていく。
Sさんは呼吸を整える間もなく、震える手で電話に出た。
「もしもし?」
「Sさん!ごめん、こんな時間に。なんか急に胸騒ぎがしてさ…大丈夫?」
Mさんの声に、Sさんはようやく現実に戻ることができた。
Sさんは、Mさんに何も話せなかった。
ただ、「うん、大丈夫だよ」とだけ答えて電話を切った。
そして浴室のドアの隙間を見たが、そこにはもう何もいなかった。
それ以来、Sさんは夜中に一人でシャワーを浴びるのが怖くなったという。