Fさんは古い神社で働く巫女だった。
神社の境内で、毎日の掃除や神事の手伝いをするのがFさんの日課だ。
Fさんは、この神社の静かな雰囲気が好きだったが、中でも夕暮れ時、参拝客もまばらになり、あたりが静けさに包まれる時間が一番好きだった。
その日もFさんは、夕刻の掃除を終え参道を掃いていた。
鳥居をくぐり、石段を上りきった場所に少し古びた手水舎がある。
Fさんは手水舎の柄杓を元の場所に戻し、ふとその隣にある小さな池に目をやった。
池の水はいつも澄んでいて、錦鯉が優雅に泳いでいるのが見える。
しかしその時、池の水面に何かが浮かんでいるように見えた。
Fさんは目を凝らした。
それは墨を溶かしたように、どす黒く濁った何かの塊だった。
形は不定形で、まるで生き物のようにゆらゆらと蠢いている。
Fさんは思わず息をのんだ。こんなものは今まで見たことがない。
掃除の時には確かに何もなかったはずだ。
その黒い塊はゆっくりと池の中を漂いながら、まるでFさんを避けるかのように奥深くへと消えていった。
Fさんは怖くなった。
神社の清らかな場所に、こんなものが現れるなんて。
だがすぐに「気のせいだろう」と、そう思い直した。
きっと鳥の影がたまたま池の上を通っただけに違いない。
Fさんはそのまま残りの掃除を済ませ、社務所へと戻り帰宅の準備を始めた。
自宅に帰ったFさんは、いつものように眠りにつこうとしていた。
Fさんの自宅は神社のすぐ近くにあった。
窓を開ければ、神社の境内の木々がざわめく音が聞こえる。
その時だった、何かが土を踏むような音がしたが気にしなかった。
夜中に動物が家の周りを歩き回ることはよくあることだったからだ。
だがその音は、規則的なリズムを刻んでいる。
まるで誰かがゆっくりと参道を歩いてくるような音だ。
Fさんは息を潜めた。まさかこんな時間に参拝客がいるのだろうか。
いや、こんな時間に参拝に来る人はいない。
その足音はゆっくりと、Fさんの家の窓に近づいてくる。
足音は窓のすぐそばで止まった。
Fさんは恐怖で身がすくんだ。窓の外に何かが立っているようだ。
Fさんは音を立てないように、そっと窓の隙間から外を覗いた。
だが、そこには何もなかった。
Fさんは安堵の息をついたが、同時に身体の芯から冷え込むような感覚に襲われた。
あの足音は一体何だったのか。
動物の足音とは明らかに違った。人の気配だった。
しかし誰の姿も見えない。
Fさんはそのまま布団を被り寝たという。