これは私の知り合いの、社会人のKさんから聞いた話。
Kさんは少し前に引っ越して、新しい部屋に置く鏡を探していた。
ネットのフリマアプリを見ていたところ、ちょうど良さそうな少しレトロなデザインの鏡を見つけた。
値段も手頃だったしすぐに購入を決めた。
届いた鏡は写真で見た通りの品で、Kさんは早速自分の寝室に設置した。
その鏡をフリマアプリに出品していた人は、Kさんが購入手続きを終えた直後、アカウントを削除したようでもう存在していなかったという。
少し妙だなとは思ったが、Kさんは特に気にしなかった。
その奇妙な現象が始まったのは、鏡がKさんの家に来て数日経ってからのことだった。
夜中、ふと目を覚ますと、寝室の暗闇の中にうっすらと鏡が光っているのが見えた。
そしてその鏡の中に、ぼんやりとした人影が映っていた。
Kさんは最初寝ぼけているのかと思ったが、だんだんと意識がはっきりしてきてもそれは映っている。
部屋には自分しかいないはずだ。
一瞬幽霊かと思ったのだが、その人影はKさんの部屋の中ではなく鏡の中の空間に存在しているようだ。
人影はKさんをじっと見ていいて、ゆっくりと手を振ってきた。
Kさんはゾッとした。
鏡に映る人影は手を振り続けている。
怖くなったKさんは布団を被って寝た。
翌日の昼間、Kさんは試しに鏡を厚手の布で覆ってみた。
これで何も映らなくなるだろうと思ったのだ。
しかし、夜になり寝室が真っ暗になると、布の隙間から漏れる鏡の光が、やはり人影を映し出しているのが分かった。
布をめくってみると布越しに映る人影が、やはりじっとKさんを見つめ、静かに手を振っている。
それはこの部屋ではなく、「別の場所の鏡の中」なのだとKさんは感じた。
鏡はまるでどこか別の世界への窓のようだった。
その世界の人影は、毎日夜中になった頃に現れ、Kさんに向かって手を振るようになった。
Kさんはだんだんとその存在に慣れてしまい、いつしか日常の一部になっていたという。
しかし、ある日の夜中。
Kさんはいつものようにふと目を覚ました。
寝室の暗闇の中、鏡がぼんやりと光っていた。
いつものように人影が映っているのだろうと思ったKさんは、何気なくそちらを見た。
すると鏡の中から真っ白な手が、ゆっくりと伸びてきていた。
Kさんはびっくりして動けなかった。
その手はまるで、鏡の薄い膜を突き破るかのように、さらに長く伸びてくる。
指の先が、今にもKさんの頬に触れそうな距離まで迫っていた。
その瞬間、Kさんの脳裏に浮かんだのは、ただ一つ「壊す」という言葉だった。
Kさんは震える手で、ベッドサイドにあった目覚まし時計を掴み、おもいっきり鏡に投げつけた。
ガラスがけたたましい音を立てて砕け散り、鏡は粉々に砕け散った。
Kさんは息を呑んだ。心臓が激しく脈打っていた。
恐る恐る、鏡があった場所を確認する。
そこには、割れた鏡の破片が散らばっているだけだった。
部屋の電気をつけて破片を拾い上げ、そこに映る自分自身を見た。
映っていたのは怯えきったKさんの顔と、部屋の様子。
あの不気味な人影も、伸びてきていた白い手も、そこにはもう存在していなかった。
Kさんは安堵の息を漏らし、そのまま崩れ落ちるように座り込んだ。
Kさんはその後、二度とフリマアプリで鏡を買うことはなかったそうだ。