会社員のTさんが残業で遅くなった時のこと。
地元の駅に着いた時、時計の針はすでに深夜を回っていた。
終電を少し過ぎた静けさが駅前に広がる。
いつもならまっすぐ家に帰るTさんだが、その日はなぜかふと足を止めた。
疲労でぼんやりとした頭で、見慣れない細い路地が通勤路の途中に現れていることに気づく。
普段はそこには壁しかなかったはずだ。
細い路地の奥は暗く、その先がどうなっているのかは全く見えない。
しかし、なぜかその路地に強く惹きつけられる感覚に襲われた。
Tさんは吸い込まれるように、その路地へと足を踏み入れた。
路地を進むにつれて、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
そして路地の先に出た瞬間、Tさんの目に飛び込んできたのは、まるで時間が止まったかのような古い町並みだった。
木造の家々が軒を連ね、瓦屋根が月の光を鈍く反射している。
人気は全くない。
しかし奇妙なことに、微かな生活の音が聞こえてきた。
カツカツと石畳を歩く靴の音、楽しげな笑い声、そして遠くから誰かを呼ぶような声。
こんな深夜だというのに、一体誰が起きているのだろうか。
しかも、その音は一人や二人といったものではなく、まるで小さな村全体が息をしているかのようだった。
違和感が、全身を覆っていく。
Tさんの背筋を冷たいものが走り抜けた。
このままではいけない。
直感的にそう感じたTさんは、来た道を戻ろうと、足早に歩き出した。
家々の隙間を縫うように進むと、やがて視界の端に、見慣れた駅前の風景が映る。
元の道に戻れたのだと理解した途端、Tさんの足は震え、膝から崩れ落ちそうになった。
いつもの道に戻ったTさんは、さっきの路地が気になり振り返ったのだが、そこにあるのはいつもの壁だった。
先ほどまで確かにそこにあったはずの細い路地は、跡形もなく消え失せている。
疲れて幻でも見ていたのだろうかと思ったが、さっき聞いた生活音は確かに聞こえていた。
あの路地は、一体どこへ続いていたのだろうか。
その夜以来、Tさんは帰り道に細い路地を見かけると、必ず遠回りをするようになった。
二度と、あの場所に迷い込むことのないように。