これは、演劇部だったTさんから聞いた話。
Tさんは、高校で演劇部に所属していた。
熱心な部員で、放課後はいつも部室に入り浸っていたそうだ。
部室は校舎の隅にあり、古くてあまり使われていない部屋だった。
独特の埃っぽい匂いがする、薄暗い空間。
その部室には、いつも不思議な光景が広がっていたという。
部室の奥には、全身を映す大きな鏡が置かれていた。
それは舞台稽古に使うためのものだったが、Tさんが部室に入るたびに、その鏡の前に必ず誰かが座っていたのだ。
彼女はいつも背を向けていて、長い黒髪が背中に垂れ下がっていた。
制服を着ていたが、Tさんの知る部員ではなかった。
Tさんは何度か声をかけたことがある。
「あの、すみません…」
だが返事はない。
ただ、そこにある静寂が、その子の存在を際立たせていた。
最初は「変な子だな」くらいにしか思わなかった。
Tさんは自分のカバンをいつもの場所に置いて、トイレに立つ。
数分後、部室に戻ってくると、鏡の前にいたその子はいなくなっていた。
ある日、Tさんは先輩にその子のことを尋ねてみた。
「最近、鏡の前に座ってる子がいるんですけど、あれって誰ですか?」
すると先輩は少し顔色を変えて言ったそうだ。
「ああ、あの鏡の前の…ね。昔からいるんだよ、あの子。
でも、絶対目を合わせちゃダメだよ」
先輩は声を潜めて続けた。
「あのね、あの子と目を合わせると、ちょっとした事故で舞台に間に合わなくなるって言われてるんだ」
その話を聞いてから、Tさんはその子がさらに気になってしまった。
目を合わせてはいけないと言われれば言われるほど、その正体を知りたくなったのだ。
そして公演が近づき、稽古に熱が入るにつれて、Tさんの好奇心は抑えきれなくなっていった。
ある日の放課後。
部室に入ると、いつものように鏡の前にその子が座っていた。
Tさんはカバンを置くと、意を決してその子の横に回り込んだ。
ゆっくりと顔を覗き込む。
その顔はTさんの想像とは違う、無表情な、しかしどこか悲しそうな顔をした少女だった。
その日から、Tさんの日常は少しずつ狂い始めた。
足元がおぼつかなくなったり、物が手から滑り落ちたりすることが増えた。
そして公演の一週間前。
舞台の小道具を運んでいたTさんは、階段の途中で突然足を踏み外した。
ドタドタドタッという音とともに、Tさんの体は数段転がり落ちた。
幸い命に別状はなかったものの、足首をひどく捻挫してしまった。
全治ニ週間。
Tさんは楽しみにしていた公演に、出られなくなってしまったのだ。
「まさか…本当にあの子のせい?」
Tさんは、鏡の前の少女の顔を思い出すたびに、ぞっとするような感覚に囚われたという。