これはKさんという大学生から聞いた話。
Kさんが通っていた大学のサークル棟は、古びた建物だった。
特に夜になると、薄暗い廊下の蛍光灯が心細く灯り、そこかしこからミシミシと木が軋む音が聞こえてくるような場所だったという。
そのサークル棟には妙な噂があった。
夜遅くまで残っていると、誰もいないはずの階段の途中から、ゆっくりと誰かの靴音が聞こえてくる、というものだった。
Kさんのサークルは2階にあったが、作業に集中していると、その足音がひときわ大きく響くことがあったそうだ。
Kさんは美術系のサークルに所属していて、締め切り前はよくサークル棟に泊まり込みで作業をしていた。
ある日の深夜、Kさんが一人で作業をしていると、ふと、その噂を思い出した。
そしてその直後だった。
ドン…ドン…ドン…。
誰もいないはずの3階から規則正しい、しかし重苦しい足音が聞こえてきたのだ。
まるで誰かがゆっくりと、一歩一歩、階段を降りてくるかのような音だった。
まさか、と自分に言い聞かせたが、その足音は確実に、Kさんのいる2階へと近づいてきているように感じられた。
Kさんは作業の手を止め、耳を澄ませた。
廊下の明かりはいつも以上に薄暗く感じられ、部室のドアの隙間から見える廊下の奥に、何か黒いものがちらついている気がした。
それは人のような、しかしもっと大きくて、曖昧な形をしていた。
Kさんの全身に冷たいものが這い上がってくる。
「誰もいないはずだ…」
そう呟いた声は、自身の耳にも震えているのが分かった。
しかし、好奇心と恐怖が入り混じった衝動に駆られ、Kさんは恐る恐る椅子から立ち上がった。
部室のドアをゆっくりと開け、音のする方向へ、一歩、また一歩と近づいていく。
廊下に出るとその空気は一層重く、湿気を帯びているようだった。
Kさんは震える手で壁を伝い、階段の吹き抜けを覗き込んだ。
そして、その薄暗い空間に息を呑んだ。
そこにいたのは、間違いなく「何か」だった。
人のような、しかし漆黒の闇そのものが形を成したかのような、巨大な黒い影。
それは、ちょうど2階の踊り場でぴたりと止まっていた。
その影は、まるで重力から解放されたかのように、ゆっくりと、そして滑るように、Kさんの目の前へと迫ってきていたのだ。
足音は聞こえるのに、その姿はまるで床に描かれた影絵のように、音もなく、しかし確実にKさんへと近づいてくる。
Kさんは悲鳴をあげそうになったが、喉がひきつり声が出ない。
全身の血の気が引いていくのが分かった。
このままでは、あの影に飲み込まれてしまう。
そう直感したKさんは、なんとか理性を取り戻し、その場を急いで逃げ出したそうだ。
振り返らずにサークル棟を飛び出し、そのまま夜道を全力で走って帰ったKさんは、次の日から夜のサークル棟には二度と近づかなかったという。
あの滑るように降りてくる黒い影が、今も夜な夜な階段をさまよっているのかもしれない。