Sさんは、都心にそびえ立つ高層オフィスビルで夜間勤務をしていた。
深夜のビルはほとんどのテナントが閉まり、人の気配はまばらになる。
Sさんの仕事は、そんな静かなビルで設備監視や巡回を行うことだった。
その夜も、いつもと変わらぬルーティンをこなしていた。
時刻は深夜1時を少し過ぎた頃。
監視室のモニターを眺めていたSさんの目に、奇妙な異変が飛び込んできた。
誰もいないはずのフロアを示す表示板が、突然、パッと明るくなったのだ。
そしてそれと同時に、1階に停止していたエレベーターが、ゆっくりと上昇を始めた。
Sさんは思わず目を凝らした。
自動で点検が入るような時間帯ではない。
それに、そもそも点検は日中の業務時間外に行われることがほとんどで、深夜に予期せぬ動きをすることはまずない。
モニターに映し出されたエレベーター内部のカメラ映像を確認する。
そこには人影は一切映っていない。
しかし、エレベーターは確実に上昇を続けている。
そして、さらにSさんを凍りつかせたのは、誰もいないはずの空間で、次々と階数ボタンが押されていくのが映し出されていたことだった。
まるで透明な誰かが、エレベーターの操作盤に手を伸ばしているかのようだ。
カチッ、カチッ、と無音でボタンが押されていく映像に、Sさんの全身の毛穴が総毛立つ。
5階、10階、15階と、エレベーターは止まることなく上昇を続け、ついには最上階で停止した。
そして最上階に到着したエレベーターのドアは、まるで何かを招き入れるかのように、あるいは何かを外に出そうとするかのように、開いたまま閉まらなくなった。
Sさんはモニターに映し出されたその光景から目が離せなかった。
真っ暗な最上階のフロアが、開け放たれたエレベーターのドアの向こうに広がっている。
Sさんはその時、背後から冷たい視線を感じたような気がして、思わず振り返ったが、勿論誰もいない。
開いたままのエレベーターのドアは、まるでビルの奥深くへと誘っているかのようだ。
Sさんはその夜、最上階のエレベーターに近づくことができなかった。
そのまま一夜を明かし、Sさんは翌朝、管理会社に連絡を入れた。
管理会社の担当者が到着し、エレベーターの点検が行われた。
そしてエレベーター内部を確認した担当者の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
Sさんが恐る恐る尋ねると、担当者は震える声で告げた。
「これは…」
エレベーターの天井点検口の内側に、無数の引っかき跡が残されていたのだ。
それはまるで、誰かがそこから這い出ようとしたような、必死な爪の跡だった。
鋭く、深く、爪を立ててよじ登ろうとしたかのような引っかき跡は、非常識な力で刻み込まれたかのようにも見えた。
Sさんはその話を聞き、全身に鳥肌が立った。
あの夜、誰もいないはずのエレベーターの中で、何が起こっていたのか。
一体何があの天井点検口から這い出ようとしていたのか。
Sさんはそれ以来、深夜のオフィスビルのエレベーターに乗ることができなくなった。
特に最上階のフロアに差し掛かると、今でも全身に言いようのない悪寒が走るという。
あの夜、最上階の開け放たれたエレベーターのドアの向こうに、何か、とてつもなく恐ろしいものが潜んでいたのではないかと、Sさんは今でも考えてしまうという。