夏も終わりに差し掛かった頃、Hさんは山の中腹で野営の準備を進めていた。
日はすでに傾き、周囲は急速に薄暗さを増していく。
湿った空気が肌にまとわりつき、あたりには濃い霧が立ち込め始めていた。
視界は悪く、わずか数メートル先も見通せないほどだ。
そんな中、Hさんの視界の先にぽつんと白い塊が浮かび上がった。
目を凝らすと、それはどうやら真っ白なテントのようだった。
こんな高地に他の登山者がいるとは珍しい。
Hさんは訝しく思いながらも、近くに誰かがいることにわずかな安堵を覚えた。
登山仲間だろうし、挨拶をしに行こうかな…と、Hさんは白いテントへと足を進めた。
霧の中をしばらく歩くと、テントは予想以上に近くにあった。
しかし近づくにつれて、Hさんは違和感を覚える。
それは、しっかりとした登山用のテントではなく、まるでただの白い布を適当に張っただけの粗末な造りだった。
風でパタパタと音を立てる布は、ひどく薄くて頼りない。
入り口と思しき部分は布がめくれ上がっており、中の様子をうかがい知ることができた。
Hさんは不思議に思いながら、中を覗き込んだ。
テントの中は想像以上に暗く、湿っぽい空気が充満していた。
地面には、まるで誰かが座っていたかのように、ひとつの座布団が置かれている。
その座布団の上には、何かが黒く濡れた塊のようなものがあった。
それが何なのか、はっきりとは認識できず不気味な塊から目が離せない。
Hさんはさらに一歩踏み込もうとした、その瞬間だった。
背後から、凍りつくような低い声が囁いた。
「入っちゃだめ」
その声はHさんの鼓膜を震わせ、脊髄を這い上がってくるような寒気を伴っていた。
急いで振り返ったが霧が見えるだけ。
霧はさらに濃さを増し、周囲の輪郭を曖昧にしている。
声の主は見当たらない。
Hさんは、このテントがただの野営地ではないことを直感した。
あの黒い塊、そしてあの声。
Hさんの全身に鳥肌が立った。
もう一秒たりともここにいたくない。
Hさんは踵を返し、来た道を全力で引き返し始めた。
背後から追ってくる気配はない。
しかしHさんの耳には、あの低い声がいつまでも残響のように響き渡っていた。
そして、霧の中にぽつんと浮かぶ白いテントが、じっとHさんを見つめているような気がしてならなかった。