Nさんは、数年前から登山に没頭している。
普段から人の少ない、整備されすぎていない登山道を好んで歩く。
その日も、彼は地図には載っていないような古い山道を、気ままに探索していた。
鳥の声だけが響く静かな山の中、踏み固められた道は徐々に細くなり、やがて獣道へと変わっていった。
Nさんはそういった道を進むのが好きだった。
未知の風景に出会える期待感が、彼の好奇心を刺激する。
しばらく獣道を分け入って進むと、ふと、道の脇に不自然な空間があることに気がついた。
草木がわずかに途切れたその奥に、苔むした小さな石の祠がひっそりと佇んでいたのだ。
祠は、まるでそこに存在しないかのように、周りの自然に溶け込んでいる。
祠の周りだけが、ひどく重い空気に包まれているように感じた。
Nさんは、何の気なしにその祠へと近づいていった。
祠は思っていたよりも古く、石段は崩れかけている。
彼は興味本位で、かがんで祠の中を覗き込んだ。
薄暗い祠の奥には小さな石像が一体鎮座していた。
その石像の顔に、Nさんはぎょっとした。
石像の顔の部分だけが、まるで焦げ付いたかのように、黒く煤けた跡がべったりとついていたのだ。
その黒さはただの汚れではない、もっとねっとりとした、不気味なものに見えた。
まるで何度も何度も、誰かの手がその顔を撫でたかのような。
Nさんがその異様な光景に目を奪われている、まさにその直後だった。
右耳のすぐそば、吐息がかかるような距離で、低い、しかしはっきりと、男とも女とも判別できないような声が聞こえた。
「見たな」
その声は囁きというよりも、Nさんの耳の奥に直接響くような、ぞっとする響きだった。
全身の毛穴が開き、背筋に冷たいものが走った。
Nさんは反射的に顔を上げ、声がした方を振り返ったが、誰かがいた気配は全くない。
にもかかわらず、耳の奥では「見たな」という声が、こだまのように響き続けているような気がした。
恐怖に背中を押されるように、Nさんは慌ててその場を離れた。
祠から遠ざかるにつれて、ようやく正常な呼吸ができるようになった。
彼はそのまま一目散に山を下りた。
それ以降、Nさんが趣味で撮る写真には、必ず奇妙なものが写り込むようになったという。
それは被写体のどこかに、ぼんやりとした黒い手のような影が写り込んでいる、というものだった。
最初は気のせいかと思ったが、どの写真にも、角度や光の加減に関わらず、必ずその黒い影が写るのだ。
まるで誰かの手が、Nさんが写す風景を、そしてNさん自身を常に背後から見つめているかのように。
その影は写真に写るたびに、少しずつ少しずつ、その形をはっきりとさせているように見えた。
Nさんはその日から、自分の背後にも、いつもその黒い手が付きまとっているのではないか、という疑念から解放されなくなってしまった。