怖い話と怪談の処

ブログ名の最後の文字は(ところ)と読みます。怖い話や不思議な話が大好きな方、是非ご堪能下さい。記事への★ありがとうございます。

地図にない迷い込んだ谷

今回この話は2つのバージョンを用意しましたので、お好きな方をどうぞ。

 

1つ目

Iさんは大学の登山サークルに所属していて、その日は仲間たちと連れ立って、少し険しい山を訪れていた。

新緑が眩しい季節で、鳥のさえずりが心地よく響く、ごく普通の登山になるはずだった。

しかし、途中で道を間違えてしまったのか、Iさんたちはいつの間にか、地図には載っていない谷間に迷い込んでいた。

 

そこはまるで音のない世界のように、不気味なほど静まり返っていた。

風の音も、鳥の声も何も聞こえない。

その谷の奥に進んでいくと、突然、ひらけた場所に出た。

そこには、誰かが意図的に作ったかのように、石で囲まれた小さな広場があった。

広場の真ん中には、古びた薄汚れた人形がぽつんと置かれている。

それは木製で、顔の部分は風化して表情が読み取れないが、どこか異様な雰囲気を漂わせていた。

誰もがその人形から目を離せずにいると、仲間の一人であるTさんが、好奇心からか、あるいは緊張を紛らわすためか、「なんだこれ」と呟いて、その人形に触れてしまった。

 

その瞬間、Iさんたちの視界がぐらりと揺れた。

まるで世界が歪んだかのような感覚だった。

目の前が一瞬にして真っ白になり、次に視界が戻った時には、そこはもう先ほどの谷間ではなかった。

見慣れた登山道に戻っており、周囲には再び鳥のさえずりが聞こえ、風の音が木々を揺らしている。

Iさんたちは顔を見合わせ、何が起こったのか理解できなかった。

まるで夢でも見ていたかのような、現実感のない感覚だ。

混乱しながら時計を見ると、驚くべきことに、時計の針は2時間も進んでいた。

あの谷間にいたのは、ほんの数分の感覚だったのに。

そして谷間は跡形もなく消え失せていた。

 

それからというもの、人形に触れたTさんは少しずつ変わっていった。

最初は誰も気に留めていなかったのだが、次第にひとりで誰かと会話している姿が増えていったのだ。

誰もいない空間に向かって話しかけ、時に笑い、時に真剣な表情で頷く。

まるで、そこに誰かがいるかのように。

友人たちが心配して「誰と話しているの?」と尋ねても、Tさんはいつも曖昧な笑顔を浮かべるだけで何も答えようとしなかった。

ただその瞳の奥には、いつも何かを隠しているような、深い闇が宿っているように見えた。

Tさんの周りには目には見えないけれど、何かが常に寄り添っているような、そんな不気味な気配が漂い始めたのだ。

 

あの谷間は一体何だったのか。

そして、あの日、Tさんの身に何が起こったのか。

その谷間に隠された秘密は、誰も知らないまま、Tさんの異変だけが静かに、しかし確実に進行していったと、Iさんは語っていた。

 

 

 

2つ目

大学の登山サークルに所属していたI先輩たちの話。

ある日、皆で山登りに出かけた際、道に迷い、地図にない奇妙な谷間に足を踏み入れてしまった。

その谷間は、不気味なほど静まり返っていた。

風の音も鳥のさえずりも一切聞こえず、まるで音を失った世界に迷い込んだかのようだった。

その異様な静寂は、異質な何かが潜んでいるかのような重苦しさを伴っていたという。

 

谷の奥へと進むと、唐突に石で囲まれた小さな広場が現れた。

広場の中央には、古びて顔の判別もつかない木製の人形が一体、まるでそこにあるべきもののように置かれていた。

その人形からは、並々ならぬ人の念のようなものが発せられているように感じられ、I先輩たちも近寄りがたい雰囲気を覚えた。

しかし、仲間のT先輩が好奇心からか、あるいは場の空気に抗うように、「なんだこれ」と呟き、その人形に触れてしまったのだ。

その瞬間、I先輩たちの視界は激しく歪み、一瞬にして目の前が真っ白になった。

まるで世界そのものがねじれたかのような感覚だったという。

再び視界が戻った時、彼らは元の登山道に戻っていた。

耳には鳥のさえずりが届き、木々を揺らす風の音が聞こえる。

しかし時計を確認すると、二時間もの空白の時間が過ぎていた。

あの谷間にいたのは、ほんのわずかな時間に過ぎなかったはずなのに。

そして背後には、先ほどまでいたはずの谷間の姿はどこにもなかった。

 

この出来事以来、人形に触れたT先輩は、少しずつ奇妙な変化を見せ始めた。

当初は小さな変化だったが、やがて彼は誰もいない空間に向かって一人で会話をするようになったのだ。

時には楽しげに笑い、時には真剣な表情で頷く。

まるで、その場に目に見えない誰かが存在しているかのように。

友人たちが心配して声をかけても、T先輩は曖昧な笑顔を浮かべるだけで、その問いに答えることはなかった。

彼の瞳の奥には、常に何かを隠し持っているような、深い闇が宿っていたという。

 

I先輩は、あの谷間は、もしかしたらこの世と「あちらの世界」との境界線のような場所だったのではないか、と語っていた。

そしてそこに置かれていた人形は、その境界を繋ぎ止める、あるいは境界の向こう側の何かを呼び寄せるためのものだったのかもしれない。

神社で奉納される品々の中にも「触れてはならないもの」が存在するように、T先輩は知らずに禁忌を破ってしまったのだ。

 

以来、T先輩の周囲からは、目には見えない異質な気配が常に漂うようになり、その異変は静かに進行していったという。