ある年の夏、Kさんはいつもの地方の無人駅のホームで、最終電車を待っていた。
残業で遅くなってしまい、疲れた体をひきずって辿り着いたこの駅には、最終の到着を待つ乗客はKさん一人だけだった。
深夜の駅のホームは、街灯の明かりがぼんやりと照らすだけで、物音ひとつしない。
普段なら虫の鳴き声がうるさいのだが、この日は虫の声すら聞こえず、ただただ静寂がKさんを包んでいた。
その時、背後のベンチから「きしり」という小さな音が聞こえた。
誰かが腰かけたような、そんな音だった。
こんな時間に他の乗客がいるんだ、とKさんは気になって振り返った。
しかしベンチには誰もいなかった。
ただ、古びた木製の座面には、くっきりと濡れたような跡が残っていた。
今夜は雨など降っていない。
Kさんは首をかしげ、気味悪さを感じた。
やがて遠くから列車の音が近づいてきた。
ヘッドライトの光が闇を切り裂き、電車がゆっくりとホームに滑り込んでくる。
Kさんはドアが開くのを待った。
しかし、電車はKさんの目の前で停止したものの、ドアは開かなかった。
窓ガラス越しに車内の人影がぼんやりと見える。
皆、一様にこちらをじっと見ている。
その視線は冷たく、まるでKさんを拒絶しているかのようだった。
その時だった。
背後のベンチから、ゆっくりと何かが立ち上がったような、そんな感覚と音がした。
「ぞり…」という、重いものが擦れるような音。
Kさんは恐る恐る振り返ったが、やはりそこには誰もいない。
ただほんの一瞬、電車の薄暗い車内に、うっすらとした黒い何かが乗り込んでいくのが見えた気がした。
数秒後、ドアはついに開くことなく、電車はゆっくりと動き出した。
Kさんはただ立ち尽くし、その電車を見送るしかなかった。
そして信じられないことに、その電車は駅の構内を出てしばらくすると、まるで霧に包まれたように忽然と姿を消してしまったのだ。
取り残されたKさんは、凍り付いたようにその場を動けなかった。
あの濡れたベンチの跡、開かなかったドア、そして消えてしまった電車。
一体何が起こったのか、Kさんには全く理解できなかった。
ただ、あの時背後に感じた、得体の知れない存在の気配だけが、深く脳裏に焼き付いている。