これは、とある夫婦、夫のKさんと妻のYさんが経験した話。
都会の喧騒から離れ、少し古いが趣のある一軒家に引っ越してきた二人は、新しい生活を楽しみにしていた。
しかし、この家には一つだけ奇妙な点があった。
それは家の奥まった場所にある、決して開かない一室の存在だった。
管理人の人も「ずっと開かずの間だった」とだけ説明し、特に気にすることもなかったため、二人は特に深く考えることもなく、その部屋を「開かずのドア」と呼んで放置していた。
しかし、引っ越して数週間が経ったある夜のことだった。
Yさんが一人でリビングで読書をしていると、奥の部屋の方から、ごく微かな音が聞こえてきた。
それは木材がゆっくりと擦れるような、あるいは何か柔らかいものが壁を這うような、聞き慣れない音だった。
Yさんは「気のせいかしら」と思い耳を澄ませた。
すると音は一度止んだかと思えば、またすぐに聞こえ始める。
その音は誰かが部屋の内部で、何かを探しているかのような、規則性のない動きを感じさせた。
Yさんは怖くなり、隣で眠っているKさんを起こそうと手を伸ばした。
しかしKさんが目を覚まし、一緒に音を聞こうとすると、不思議と音は完全に止んでしまうのだ。
そんな事が何度も続く。
Kさんが起きている時には一切聞こえず、Yさんが一人になるとまた微かな音が響き渡る。
逆もまた然りで、Kさんが夜中に一人で起きている時、同じような音が聞こえたことがあった。
Kさんが音のする方を注意深く見つめていると、確かに開かずのドアの中から音がする。
しかしYさんが目を覚ますと、やはり音はピタリと止まるのだ。
二人は顔を見合わせ、言葉にならない不安を共有した。
そんな日々が続くうち、さらに奇妙なことが起こり始めた。
開かずのドアの下の隙間から、何かが滲み出してきていることにYさんが気づいたのだ。
それは黒に近い、しかし完全に黒ではない、形容しがたい色合いの染みだった。
最初はその染みもごく小さく、埃の塊か何かだと見過ごしていた。
しかし、日を追うごとにその染みはゆっくりと大きくなっていった。
まるで部屋の中から何かが溢れ出しているかのように、床板を汚し、不気味な形を広げていく。
その染みからは微かな生臭いような、それでいて甘ったるいような、不思議な匂いが漂い始めていた。
二人は恐怖に怯えながらも、次第にその部屋の存在そのものに引き寄せられるような感覚に囚われていった。
ある晩、Yさんは一人でそのドアの前に立っていた。
染みはもうドアの周りの床を広く覆い、まるで生き物のように蠢いているように見えた。
Yさんは抑えきれない衝動に駆られ、震える手でドアの鍵穴に目を近づけた。
暗闇の向こうに、何かが見えるような気がしたのだ。
鍵穴の奥は真っ暗で何も見えないはずなのに、その暗闇の中に、何か「いる」という確かな存在感を感じた。
そして、耳元でごく微かな、聞き取れないほどの囁きが聞こえた気がした。
それは何かがこちらを呼んでいるような、あるいは何かを訴えかけているような、不明瞭な音だった。
Yさんは全身に鳥肌が立つ感覚を覚えた。
同時にこの部屋を開けてはいけない、しかし同時に開けたいという、矛盾した欲望に苛まれていた。
その夜、Yさんは隣で眠っていたKさんを強く揺り起こした。
「あの部屋が、おかしいの!」と半狂乱で訴えるYさんのただならぬ様子に、Kさんもようやく事の異常さを理解した。
二人は一睡もできず夜明けを待った。
翌朝、Kさんは改めてドアを調べたが、やはり開くことはなかった。
しかし、二人はこのままではいけないと強く感じた。
その日のうちに、家屋の専門家を呼んでドアの調査を依頼した。
専門家はドアの構造を一通り確認すると、「これは普通のドアではない。
一度完全に封鎖された形跡がある」と告げた。
そして、ドアの下の染みを見て顔色を変えた。
専門家からの助言もあり、二人はこの家を手放すことを決断した。
引っ越しの日、開かずのドアは相変わらずそこにあったが、二人は決して振り返ることなくその家を後にした。