Mさんが大学生だった頃の話。
都会の喧騒から離れたくて、Mさんは旅行雑誌で見つけた山奥の古い民宿を訪れることにした。
そこは車でもたどり着くのが困難なほどの山奥にあり、雑誌には「静寂に包まれた隠れ家」と紹介されていた。
民宿は想像以上に古く、黒光りする木材の柱や梁が時代を感じさせた。
独特の土埃と、何かが燻されたような匂いが混じり合ったような、古い匂いがした。
宿の女将は年配の女性で、物静かな人だった。
Mさんは二階の、庭が見える広々とした部屋に通された。
他に客の気配はなく、Mさんの他に宿泊客はいないようだった。
一日目は何事もなく過ぎた。
温泉に入り、山菜中心の素朴な食事を摂り、Mさんは久々に心から安らぎを感じていた。
夜、布団に入ってすぐに寝たのだが、深夜頃、微かに「カツン、カツン」という音が聞こえてきた。
木製の床を何かが叩くような、しかし、とても柔らかい、小さな音だった。
音は上の階、あるいは屋根裏から聞こえてくるようにも思えた。
Mさんは、古い建物が軋む音だろうと自分に言い聞かせ、気にしないように努めた。
二日目の夜。
その音は再び始まった。今度は昨日よりもはっきりと聞こえる。
「カツン、カツン、カツン」。
規則的な足音のようだ。
そしてそれに混じり、何かが「ギギギ」と擦れるような音もする。
重いものをゆっくりと引きずるような音。
Mさんは布団の中で身を固くした。これは建物の音ではない。
何かが動いている。
Mさんは意を決して起き上がり、階下へ様子を見に行った。
しかし宿の明かりは全て消え、女将の姿も見当たらない。
シンと静まり返った広間に、Mさんは言いようのない孤独と不安を感じた。
自分の部屋に戻ると、やはり音は続いていた。
Mさんはもう考えるのをやめ、目を閉じ眠ろうとした。
その時、頭上から聞こえていた「カツン、カツン」という音がピタリと止んだ。
安堵したのも束の間、今度は別の音が耳に届いた。
それは、「ズ、ズ、ズ…」と、水を含んだような、湿った何かを引きずるような音だった。
そしてその音はMさんの部屋の外、廊下から聞こえてくる。
Mさんの部屋の方へ、ゆっくりと近づいてくる。
Mさんは息を殺した。
音はMさんの部屋の戸口で止まった。
その瞬間、全ての音が消えた。張り詰めたような静寂。
部屋の奥にある押し入れの襖が、微かに「スー」と音を立てた。
気になってそっちの方を見ると、指一本分ほどの隙間が開いていた。
開いたわずかな隙間の奥から、何か真っ暗なものが覗いているように見えた。
そしてその暗闇の中からとても微かな、浅い呼吸の音が聞こえた。
誰かが息を潜めてすぐそこにいるかのようだ。
Mさんは、そこから朝まで一睡も出来なかった。
目を見開いたまま、その襖の隙間を見つめ続けていた。
夜が明け、窓からわずかに光が差し込み始めた時、その微かな呼吸の音は止んだ。
Mさんは急いで身支度を済ませ、部屋を出るとお題、受付においておきます!と叫び、宿泊代を置いて一度も振り返ることなくその民宿を後にしたという。
あの時、部屋の外から覗いていたものは一体なんだったのか…。