
Dさんがまだ学生だった頃の話。
Dさんは大学時代の友人たち、Sさん、Mさんと集まり、近場の山へ登山に出かけた。
秋晴れの空の下、紅葉が始まったばかりの山道は、都会の喧騒を忘れさせてくれるような、心地よい静けさに満ちていた。
午前中から登り始め、山頂で昼食をとり、下山を開始したのは午後の半ばだった。
山の天気は変わりやすい。
下山を始めてしばらくすると西日が傾き始め、山の木々は徐々にその影を長くし始めた。
辺りはだんだんと薄暗くなり、冷たい風が吹き始める。
肌寒さを感じながら、Dさんたちは足早に山道を下っていた。
その時、Dさんはふと道の脇に目をやった。木々の隙間から何かが見えた気がしたのだ。
それは人の形をしているようだったが、あまりにも不自然だった。
夕暮れの光の中、周囲の木々や岩はぼんやりと輪郭を浮かび上がらせているのに、その人影だけは、まるでそこに開いた穴のように真っ黒だった。
光を吸い込むような真っ暗闇。
「おい、あれ…」
Dさんは思わずSさんを肘でつついた。
SさんとMさんも、Dさんの視線の先を追う。
全員が言葉を失った。
道の脇、ほんの数メートル離れたところに、その黒い人影は、微動だにせず立っていた。
まるで、Dさんたちを見送っているかのように。
目を凝らしてもその影は何も変わらない。
顔も、服装も、性別さえもわからない。
ただ漆黒のシルエットが、そこに不気味なほど存在しているだけだった。
山にいるはずのない異様な気配。
「なんだあれ…」
Mさんが震える声でつぶやいた。誰もが恐怖を感じていた。
それが人間ではないことは本能的に理解できた。
Dさんたちは何も言わず、ただひたすら早足でその場を通り過ぎた。
振り返る勇気は誰にもなかった。
山を下りきり、街の明かりが見えた時、ようやく全員が安堵のため息をついた。
あの影についてそれ以上話す者はいなかった。
全員がその出来事を、記憶から消し去ろうとしているかのようだった。
しかし、それは始まりにすぎなかった。
それから数日後。
Dさんは自宅で本を読んでいた。
ふと顔を上げた時、視界の端に黒い影がよぎった。リビングのカーテンの向こう。
一瞬、「誰かいるのか?」と思ったが、そこには誰もいない。
気のせいだと自分に言い聞かせた。
だがそれ以来、その現象は頻繁に起こるようになった。
夜、自室でパソコンに向かっている時。台所で飲み物を入れている時。
あるいは道を歩いていて、ショーウィンドウに映る自分の姿を見た時。
ふとした瞬間に、視界の端にあの時の山で見たのと同じ、輪郭がはっきりしない真っ黒な人影がちらつくのだ。
その影は決してDさんの真正面に現れることはない。
いつも視界の端。
意識して見ようとすると、もうそこにはいない。
まるで注意が他に向いている隙を狙って、現れるかのように。
Dさんは次第に神経質になった。
常に視界の端を意識するようになり、物音一つにもびくつくようになった。
あの山での出来事が頭から離れない。
友人たちも同じような経験をしているのか、Dさんは怖くて聞くことができなかった。
その影は、今もDさんの視界の端に時折現れるという。