
これは長年山に登り続けているベテランの登山家、Hさんの話。
Hさんは人があまり足を踏み入れない、奥深い山域を好んで単独行をしていた。
その日も、彼は古い地図にしか載っていないような、とある無人の山小屋を目指して山を登っていた。
夕暮れ時、ようやく山小屋にたどり着いたHさんは、簡単な食事を済ませ、明日に備えて早めに寝袋に入った。
その夜、日付が変わる頃だろうか。Hさんは外の音で目を覚ました。
風が唸り、雨が窓を激しく叩いている。どうやら嵐のような天気になっているようだった。
山ではよくあることだと思い、Hさんは再び目を閉じようとした、その時だった。
コン、コン…。
山小屋の木のドアが小さく叩かれる音がした。
Hさんは飛び起きた。
こんな悪天候の中、こんな山奥の無人小屋に誰かが来るはずがない。
ましてやこんな時間に。
Hさんは息を殺し、耳を澄ませた。外の嵐の音が耳元で渦巻いている。
だが、その激しい風雨の音の合間にも、確かに聞こえる。
コン、コン、コン…。
規則正しいリズムでドアが叩かれる音。
まるで誰かがHさんに気づいてほしくて、しつこく呼びかけているかのようだった。
心臓が早鐘を打つ。
Hさんは登山歴が長く、数々の修羅場をくぐり抜けてきた。
だが、今この山小屋で聞こえる音は、彼のこれまでの経験の範疇を超えていた。
もし目の前に野生動物がいたなら、対処法はわかる。
だが、これは人間が起こしている音のように聞こえるのに、状況がそれを許さない。
Hさんは身動き一つせず、寝袋の中で固まっていた。
ドアを開けることなどとてもできない。
外の嵐はさらに激しくなり、ドアを叩く音もそれに合わせて強さを増していく。
ドン、ドン、ドンッ!
先ほどまでの優しげな音が嘘のように、ドアを打ち破らんばかりの衝撃が伝わってくる。
Hさんは全身から冷や汗が噴き出すのを感じた。
息を吸うのも苦しいほど、恐怖が彼の体を縛り付けていた。
一晩中、その音は続いた。時には小さく、時には大きく。
Hさんは一睡もできず、ただひたすら朝が来るのを待った。
朝日が差し込み、外の嵐がようやく収まった頃、ドアを叩く音はぴたりと止んだ。
Hさんは恐る恐る寝袋から這い出し、ゆっくりとドアに近づいた。
意を決して軋むドアを外側に押し開ける。
…そこには誰もいなかった。
安堵と疲労で、Hさんの膝がガクガクと震えた。
だが、その安堵はすぐに凍りつくような恐怖へと変わった。
木のドアの外側に、びっしりと黒い手形がついていたのだ。
数えきれないほどの泥のような手形。
それはまるでドアを叩き続けた者が、両手で何度も何度も、狂ったようにドアを擦りつけたかのようだった。
その手形は人間のものとしてはあまりにも大きく、指の形も不揃いで、どことなく異様な印象を与えていた。
Hさんはその光景を目にした瞬間、背筋が凍りつき、思わず声を上げてしまった。
それが人間のものではないことは明確だった。
Hさんはその山小屋から一目散に立ち去った。
それ以来、二度とあの山小屋に近づくことはやめたという。