
夏休み、社会人のTさんが、久しぶりに実家に帰省した時の話。
連日うだるような暑さが続いていたが、故郷の空気はどこか懐かしい。
Tさんは、ふと思い立って裏山へ散策に出かけることにした。
子供の頃、秘密基地のようにして遊んでいた場所がある。
鬱蒼とした木々の奥まったところに、大きな岩がいくつかあって、そこがTさんのお気に入りの場所だった。
家を出ると、すぐに耳をつんざくような蝉の声が降り注いできた。
アブラゼミ、ミンミンゼミ、ニイニイゼミ…様々な種類の蝉が、競い合うように鳴いている。
Tさんはその騒がしさを心地よく感じながら、山道をゆっくりと登っていく。
汗が額に滲む頃、見慣れた景色が広がってきた。
目的の場所に近づいているようだ。
しかし、あと少しというところで、周囲の音がふっと途絶えた。
さっきまであれほど賑やかだった蝉の声が、嘘のように聞こえない。
Tさんは足を止めて辺りを見回した。
木々はいつもと変わらないように見える。
陽の光は木漏れ日となって、地面をまだらに照らしていた。
ただ空気が重い。ひんやりとした湿った空気が、肌にまとわりつくように感じられた。
(変だな…)
Tさんはそう思った。
蝉の声が全く聞こえないなんて、今まで一度もなかった。
不安な気持ちが胸の中に広がる。
それでも子供の頃の思い出を確かめたくて、Tさんは足を進めた。
やがて大きな岩が見えてきた。間違いなくあの秘密の場所だ。
だが、Tさんは目を疑った。
岩の陰に、以前はなかった小さな祠が建っている。
風雨に晒され、朽ちかけたような祠だった。
近づいてみると、祠の扉がわずかに開いているのが見えた。
そしてその隙間から、かすれたような低い声が聞こえてきた。
何かの言葉を呟いているようだが、はっきりとは聞き取れない。
ただ、その声は明らかに子どものものではない。
もっと低く、喉の奥から絞り出すような、不気味な響きを持っていた。
祠の大きさは、子供でさえやっと入れるかどうかというほど小さい。
幼稚園児ならなんとか入れるかもしれないが、あんな低い声を出すことができるはずがない。
恐怖が津波のように押し寄せてきて、全身の毛が逆立つのを感じた。
Tさんは音を立てないように、ゆっくりと後ずさりをした。
祠から距離を取り、ある程度離れたところで走り出した。
蝉の声が再び聞こえ始めたのは、麓近くまで下りてきた頃だった。
息を切らしながら家に帰り着いたTさんは、祖父に裏山で体験した奇妙な出来事を話した。
祖父はTさんの話を聞くと、顔色を青くして言った。
「ああ、それは…見んでよかった。
もしあれをじっと見ていたら、命がなかったかもしれんぞ」
祖父はそれ以上、詳しいことを語ろうとはしなかった。
ただ、その表情は深く不安そうな色を帯びていた。
夏休みが終わっても、Tさんはあの祠から聞こえた低い声と、祖父の不安そうな表情を忘れることができなかった。
蝉しぐれが聞こえるたびに、あの静寂と重苦しい空気を思い出し、背筋が冷たくなるそうだ。