Hさんが小学四年生の夏休みに体験した話。
Hさんの住む家は、築数十年は経つであろう古い木造家屋だった。
真夏の蒸し暑さがまとわりつくような夜、Hさんは寝苦しさから何度も寝返りを打っていたが、ようやく眠りについたはずだった。
ふと、意識が浮上した。
寝室で微かに響いていた扇風機の音が止まっている。
重苦しい空気が肌にまとわりつき、嫌な汗が滲んでいた。
同時に尿意を感じ、仕方なく布団から起き上がった。
Hさんは二階の部屋で寝ているのだが、古い木造の家は、夜になると小さな物音も大きく響く。
特に階段は一歩踏み出すごとに「ギィ、ギィ」と悲鳴のような音を立てるのが怖かった。
できるだけ音を立てないように、Hさんは恐る恐る階段を下り始めた。
一段、また一段と降りるたびに、木材が軋む音が静かな家の中に響く。
階段を下り切り、トイレのある方向へそっと足を進めた。
するとトイレのドアの下の隙間から、微かな明かりが漏れていることに気づいた。
誰かがトイレを使っているのだろうか。
不思議に思ったが、Hさんは明かりの漏れるドアの前で、静かに家族が出てくるのを待つことにした。
数分が過ぎただろうか。
「ギィー…」という低い音が聞こえた。
それは古くて重い木製のドアが開く音だった。
ゆっくりとトイレのドアが内側へ開き始める。
誰が入ってたんだろう、と中から出てきたものを見た瞬間、Hさんの理性は吹き飛んだ。
そこに立っていたのは、見知らぬお婆さんだった。
頭は白髪で乱れ、背中は深く丸まっている。
長い着物の裾が、古い床に擦れる音が微かに聞こえた。
古い時代の人のようにも見えたが、何よりもHさんの目を奪ったのは、その体の向こう側が透けて見えていたことだった。
壁の模様がお婆さんの体を透けて、ぼんやりと見えていたのだ。
老婆は表情を一切変えることなく、無言でHさんの顔をじっと見つめていた。
その目は、暗闇の中で深い光を湛えているように感じられた。
何か言葉を交わすこともなく、老婆は突然、「スッ」とその場から消え失せた。
Hさんの体から一瞬にして力が抜けた。
恐怖で足が竦み、その場に座り込んでしまった。
心臓は激しく鼓動し、冷たい汗が背中を伝う。
しばらく呼吸もままならなかった。
ようやく体を動かせるようになったHさんは、半泣きになりながら一目散に母親の寝室へ駆け込んだ。
ドアを開け放ち、震える声で叫んだ。
「お母さん!トイレに知らないお婆さんがいた!」
母親は、寝ぼけた目でHさんの突然の言葉に驚き、すぐに体を起こしてくれた。
「どうしたの?」と心配そうに尋ねる母親に、Hさんは言葉にするのが難しいほどの恐怖を訴えた。
「半透明で…急に消えちゃったんだ!」
Hさんのただならぬ様子に、母親も事の異常さを感じ取ったのだろう。
「一緒に行こう」とHさんの手を強く握り、二人でトイレへと向かった。
恐る恐るドアを開け中を確認したが、そこには誰もいなかった。
しかし、Hさんは確かに感じた。
ほんのわずかに、その場所に冷たい空気だけが残っているような気がしたのだ。
母親は、寝ぼけて見た夢だったんじゃないかと言ったが、Hさんにはどうしてもそうは思えなかった。
あの半透明な姿、無表情な目、そして突然の消失…それは子供の空想で片付けられるようなものではなかった。