
Mさんが小学六年生の夏休みに、親戚の家に泊まりに行った時の事。
その家は海の近くにあり、庭から細い坂道を下ると、すぐに小さな入り江の海岸に出られる。
観光客も少なく、静かで波音だけが絶えず耳に届く場所だった。
Mさんは絵を描くのが好きで、親戚の家に来るといつもスケッチブックと色鉛筆を持って海へ出かけていた。
岩場に腰を下ろし、波打ち際や漂流物、遠くの灯台などを、無心に描く時間が好きだった。
その年の滞在初日、Mさんは岩場に座り、引き潮であらわになった岩と波、そして砂浜の景色をスケッチしていた。
描き終わってふとページを見直すと、隅のほうに「人の姿」が小さく描かれているのに気がついた。
背中を向けて立っている痩せた人物。
自分では描いた覚えがない。
けれど筆のタッチは、確かに自分のものと同じに見えた。
集中して知らないうちに描いちゃったのだろう、とその日は気にせずページをめくって閉じた。
翌日、Mさんはまた違う場所、入り江の反対側にある堤防の上で、波に照らされた白い石を描いていた。
するとた絵の中に「昨日の人物」が描かれていた。
今度は背中ではなく、少し斜めを向いている。
顔はよく見えないが、確実に距離が近くなっていた。
不思議な違和感を覚えたが、大人たちに話しても「自分で描いたんだろう」と言われるだけだと思い、そのままにした。
三日目、親戚の家で過ごす最後の日。
Mさんは、午前中のうちに再びスケッチブックを持って海に出かけた。
今度は波の引いた砂浜に座って、空と海の境目と砂浜を描こうとした。
風は涼しく、空は高く澄んでいた。
しかし、なぜか手が震えた。何かが「近づいてきている」気がした。
それでもいつものように絵を仕上げた。
ページを閉じる前、何気なく振り返ったが背後の砂浜には誰もいない。
波の音しか聞こえない。
家に戻って荷物をまとめていると、親戚のおばさんがMさんのスケッチブックを手に取って「上手ねぇ」と何気なくページをめくった。
するとおばさんが不意に手を止め、眉をひそめた。
「…あら、これ誰?」
Mさんが覗き込むと、そこには最後に描いた風景の真ん中に、あの「知らない人」が立っていた。
今度はこちらにまっすぐ顔を向けて、笑っていた。
口元だけが不自然に裂けたように、横に横に広がっていた。
怖くなったMさんはそのページを破って捨てようとしたが、どうしても破れなかった。
それどころか、スケッチブックを閉じると、なぜか重たく冷たい感触が手に残った。
その夏以来、Mさんは海辺では絵を描かなくなったという。
けれど今でもふと何かの拍子に、ノートの端に「人の姿」が描き込まれていることがあるらしい。
何も描いていないはずの白紙に、少しずつ近づいてくるように。